じじぃの「人の死にざま_549_安藤・広」

安藤広重 - あのひと検索 SPYSEE
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東海道五十三次<1>日本橋〜<15>吉原まで 動画 YouTube
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Ando Hiroshige ,Ukiyo-e (ucusan dunya) 動画 YouTube
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夜之雪(蒲原) 画像
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五十三次日本橋 画像
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安藤広重 画像
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歌川広重 提供: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
歌川広重は、浮世絵師。江戸の定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが、現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。また、世界でも著名な画家である。
【略歴】
広重は、江戸の下級武士・八代洲河岸、定火消屋敷の同心、安藤源右衛門の子として誕生。
天保元年(1830年)一幽斎廣重と改め、花鳥を描いていたが、文政11年(1828年)師の豊廣の死の後は風景画を主に制作した。天保3年 (1832年)、一立齋(いちりゅうさい)と号を改めた。また一遊斎、立斎とも号した。広重は始め役者絵から出発、やがて美人画に手をそめたが、南宋画も学んで、天保3年(1832年)、36歳の時に正式に職を仲次郎に譲ってから浮世絵師として独立した。この年、公用で東海道を上り、翌年から「東海道五十三次」を発表、風景画家としての名声は決定的なものとなった。以降、種々の「東海道」シリーズを発表したが、各種の「江戸名所」シリーズも多く手掛けており、ともに秀作をみた。また、この間、花鳥画においてもすぐれた作品を出し続け、晩年には美人画3枚続も手掛けている。さらに狂歌本の挿絵も多く残している。
【ヒロシゲブルー】
歌川広重の作品は、ヨーロッパやアメリカでは、大胆な構図などとともに、青色、特に藍色の美しさで評価が高い。
この鮮やかな青は藍(インディゴ)の色であり、欧米では「ジャパンブルー」、あるいはフェルメール・ブルー(ラピスラズリ)になぞらえて「ヒロシゲブルー」とも呼ばれる。
ヒロシゲブルーは、19世紀後半のフランスに発した印象派の画家たちや、アール・ヌーヴォーの芸術家たちに大きな影響をあたえたとされ、当時ジャポニスムの流行を生んだ要因のひとつともされている。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
安藤広重(あんどうひろしげ) (1797-1858) 61歳で死亡。 (一部抜粋しています)
安政5年夏から秋にかけて江戸にコレラが流行し、府内の死者2万8000人に及んだ。『東海道五十三次』の広重もこれにかかって死んだ、といわれるが、偶然コレラ流行期に死んだだけでコレラではなかったという説もある。
とにかく彼はもはや再起不能だと知って、家族に遺言を書いた。
「・・・・何を申すも金次第、その金というものがないゆえ、われら在じ寄りなんにもいわず、どうとも勝手次第身の納(おさま)り、よろしく勘考いたさるべく候。
 死んでつく地獄の沙汰はともかくも
  あとの始末が金次第なれ」
お金を残してやれないから自分には何をいう資格もない。あと家族は何とかして生きていってくれという、無責任といえば無責任だが、哀切といえばこれほど哀切な遺書もない。いかに多くの人間が、同様の思いをいだいて死んでゆくことか。−−客観的に見れば、遺言書の傑作の1つであろう。
翌3日、まだ死なないので、また遺言をかいた。
「古歌
 我死なば焼くなうめるな野に捨てて
  飢ゑたる犬の腹をこやせよ
 この心持にて手軽く野辺送りいたし申すべし。江戸市中の住居ゆえ近傍に捨てるような野もなきゆえ寺へやり埋めてもらうばかり、必ず見栄や飾りは無用なり。
 湯灌もいらぬことなれども真似事ばかりさっと水をかけおくべし、手数をかけるはまことに無駄な骨折りゆえ決して御無用なり。
 吝嗇(りんしょく)は悪し、無駄ははぶくべし。通夜のお人には御馳走いたすべし。
 東路(あずまじ)の筆を残して旅の空
  西のお国の名どころを見ん」
こんないろいろと気をつかいながら、広重はまだ3日間生きていて、9月6日の朝死んだ。

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東海道五十三次 東海道五十三次
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