じじぃの「人の死にざま_311_司馬・遷」

司馬遷 - あのひと検索 SPYSEE
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中国の恐ろしい歴史「司馬遷史記武田鉄矢『今朝の三枚おろし』 動画 YouTube
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司馬遷 ウィキペディアWikipedia)より
司馬遷(紀元前145年- ?)は、中国前漢時代の歴史家で、『史記』の著者。
姓は司馬。名は遷、字は子長。司馬氏は周代の記録係の家系であり、父は前漢の太史令となった司馬談。官名により太史公を自称する。娘婿は楊敞(昭帝丞相・安平侯)、孫は楊綠で『史記』を広めた。
自身も父を継いで大史令を拝命、その職能・任務として、清時代まで使用された太初暦の制定を行なった。その後宮刑を受けるも、父の志を受け継いで歴史書史記』を完成させた。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
司馬遷 (前145 - 前86頃) 59歳で死亡。
中国の黄帝時代から前漢武帝までの通史を、竹簡木簡(ちっかんもっかん)による130巻の大著『史記』としてはじめて書いた漢帝室の御用記録官司馬遷は、この仕事にとりかかってから5年目に運命の大悲劇を迎えた。
彼の仕える武帝は、ときあたかも北方匈奴(きょうど)を討伐すべく将軍李広利の大軍をさしむけていたが、その一将、勇猛無比の李陵は、突出してはるか敵の本拠をつこうとして逆に全滅状態となり、李陵もまた捕虜となった。この敗報に漢廷あげて李陵の失敗を責める中に、司馬遷はあえて李陵を弁護した。李陵は彼の親友だったのである。
それは同時に大将李広利を非難する事になり、李広利は武帝の寵姫の兄であったから武帝の怒りを買い、彼は宮刑(男根切断)を受ける羽目になった。彼が46歳のときである。
司馬遷は、この死以上の屈辱に耐えて生きぬいた。その目的はただ一つ、彼がとりかかって、いまなお未完の『史記』を書きつづけるためであった。
男根を失った彼は、55歳のころ、ついに『史記』を完成し、宦官(かんがん)として余性を59歳で閉じた。 (司馬遷の生没年については『広辞苑』による)

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司馬遼太郎
筆名は司馬遷に遼に及ばずからきている。(Wikipediaより)

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司馬遷の言葉
「鶏口と為るも牛後となる無かれ」 (『史記』より)
意味.牛の尻尾のように生きるよりも、小さくとも、鶏の頭(カシラ)になるべきである。

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司馬遷 Google 検索
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