じじぃの「人の死にざま_1445_紂王(殷の王)」

紂王和妲己. 0001 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=k1FiZ2nfsWc
中国 殷墟

中国 甲骨文字

1804年に出版された中国の刑罰の解説図 2008年01月21日 GIGAZINE
http://gigazine.net/news/20080121_china_punish/
帝辛 ウィキペディアWikipedia)より
帝 辛(てい しん、ピン、紀元前1100年ごろ)は、殷の第30代帝であり、最後の帝。紂王(ちゅうおう、Zhou Wang)の名でも知られる。暴虐な政治を行なった帝とされ、周の武王に滅ぼされた。『史記集解』によれば「義を残(そこ)ない、善を損なうを紂と曰う」と記されている。

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『中国 かなりこわい闇の歴史---学校じゃここまで教えない!』 歴史の謎を探る会 KAWADE夢文庫 2011年発行
紂王――古代の王たちが好んだ想像を絶する刑罰とは (一部抜粋しています)
国史の裏面は、残虐刑の歴史といってもいい。その残虐ぶりは現代人には想像を絶するものであり、ある意味、芸術的な領域にまでいたっている。その歴史は古く、すでに伝説の王たちの時代から残虐刑は行われていた。
中国の伝説の王といえば、尭(ぎょう)が有名だ。尭は徳の高い王として名高いが、そのいっぽうで残虐な刑を定めた。刺青を施す黥刑、鼻を削ぐ刑、足の筋を切る刑、性器を切り取ってしまう宮刑、斬殺である大辟(たいへき)の5刑である。中国名物ともいえる宮刑は、伝説の王の時代から、すでにはじまっていたのだ。
尭の時代は、まだマシなほうだったといえるかもしれない。古代中国の残虐王といえば、殷の紂王である。
彼は、殷の前にあったとされる伝説の王朝・夏の桀(けつ)王と並ぶ残虐王とされ、ふたり合わせて「桀紂(けっちゅう)」の悪名でよばれる。
紂王は「酒池肉林」のエピソードでも知られる。悪女・妲己(だっき)に幻惑され、彼女を悦ばせるために宮殿に酒の池をつくり、庭園の木々には食肉をかけた。そのなかで、紂王は妲己との愛欲にふけったというが、いつしかそれにさえも興奮しなくなった。そこで、より強い刺激を得るため、残虐刑に走ったともいわれる。
紂王のおこなった残虐刑の代表は「炮烙(ほうらく)」の刑である。紂王をいさめる者には、この刑が科せられた。火の海のなかに銅の棒を置き、その上を歩かせるという刑罰だ。銅の棒には油が塗られていて、ただでさえ滑りやすい。むろん、足の裏は焼けるように熱い。そうして、多くの人々が銅の棒から滑り落ち、火の海のなかで焼け死んでいった。銅の棒の上を渡り切れば無罪となったが、そんなことができる者はいるはずもなかった。また、中国伝統である「人肉食」も、紂王の時代にすでにはじまっていた。