じじぃの「人の死にざま_1452_孟嘗君(戦国時代)」

史記孟嘗君列傳第十五》01 孟嘗君名文,姓田氏 動画 YouTube
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孟嘗君(5) (講談社文庫)/宮城谷昌光の感想 読書メーター
全5巻通して、おもしろく読めた。ただ、土地や人物などの説明がちょくちょく入ってくるのが・・・歴史に疎いわたしのような読者には理解の助けになると同時に、そういうもの抜きに小説を楽しみたい気持ちには水をさされて感情移入しにくい面も。
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孟嘗君 ウィキペディアWikipedia)より
孟嘗君(もうしょうくん)こと田文(でんぶん、? - 紀元前279年)は、中国戦国時代の政治家。戦国四君の一人。姓は嬀(ぎ、女偏に爲)、氏は田、諱は文。諡が孟嘗君である。斉の威王の孫に当たる。
【鶏鳴狗盗】
紀元前299年に秦の昭襄王は田文を宰相として迎え入れようとした。田文はこれに応えて秦に入ったが、ある人が昭襄王に、田文は当代一流の人材であるが斉の人間であるから、秦の宰相になっても斉の利を優先するに違いない。斉に帰せば秦の脅威となると進言、昭襄王はこれを容れて田文が滞在している屋敷を包囲させ、田文の命は危うくなった。
常日頃、学者や武芸者などの食客は、田文が盗みや物真似の芸しか持たないような者すら食客として受け入れていたことに不満だったが、このときばかりは田文の先見の明に感心した。「鶏鳴狗盗」(けいめいくとう)の故事はここから来ている。

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孟嘗君(5)』 宮城谷昌光/著 講談社 1995年発行
あとがき (一部抜粋しています)
孟嘗君は名ばかりが高く、実体のわかりにくい人である。
かれは晩年、秦に招かれ、宰相となるが、秦王の変心により殺されそうになる。危機一髪の函谷関(かんこくかん)を食客の機転によって脱っする話はおもしろく、それゆえ、そればかりが人口に膾炙(かいしゃ)したきらいがある。司馬遷の『史記』には「孟嘗君列伝」があり、むろん「鶏鳴狗盗」の逸話が載せられているが、全体の書きかたとしてはそこにクライマックスがおかれているわけではなく、むしろ「孟嘗君食客伝」とよんだほうがふさわしい構成で、とくに晩(おそ)くに食客になった馮驩(ふうかん)の活躍が印象的である。馮驩は『戦国策』では馮諼(ふうけん)と記されている。『戦国策』は前漢の劉向(りゅうきょう)によって編まれたもので、その内容は、史書というより策謀書とよんだほうがふさわしいのであるが、劉向よりはるかまえに生まれていた司馬遷は、『戦国策』のもとになる書物を読んでいたらしく、かならずしも『戦国策』の内容が『史記』より正確さを欠くわけではない。むしろ『戦国策』のほうが歴史の真相をついているとおもわれる部分もすくなくないので、同一人物でふたつの名をもつ場合は、この小説では、おもに『戦国策』をもとにした。
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「斉の湣王が宋を滅ぼしてしまうと、孟嘗君をしりぞけようとした。そこで孟嘗君は魏へ亡命した。魏の昭王は孟嘗君を大臣にして、諸侯とともに軍をだして斉を破った。湣王は死んだのである。湣王の子の襄王が斉を復興させようとするころ、孟嘗君は諸侯の間で中立を守り、どの国にも所属しなかった。あらたに斉王となった襄王は孟嘗君を畏(おそ)れ、薛(せつ)と連合した。孟嘗君が亡くなると、孟嘗君の子が争って立ったので、その混乱に乗じて斉と魏とが共謀して薛を滅ぼした。それゆえ孟嘗君のあとつぎは絶えた」
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晩年の孟嘗君は、情意がおもいがけぬほど明確になり、なるほど、この人はこういう人であった、と感心した。一言でいえば、孟嘗君は中庸の人である。血風吹きすさぶ戦国時代で、その思想を体現したことは、奇異としなければなるまい。