じじぃの「人の死にざま_1457_李陵」

中島敦「李陵」(表現よみ:渡辺知明)―名作名文ハイライト 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=wqV2jRiu9EU
中島敦著 「李陵・山月記

中島敦『李陵・山月記 新潮社
人はいかなる時に、人を捨てて畜生に成り下がるのか。中国の古典に想を得て、人間の心の深奥を描き出した「山月記」。
http://www.shinchosha.co.jp/book/107701/
李陵 ウィキペディアWikipedia
李 陵(り りょう、? - 紀元前74年)は、中国前漢代の軍人。匈奴を相手に勇戦しながら敵に寝返ったと誤解された悲運の将軍。司馬遷宮刑に処される原因を作った人物である。字は少卿。
【関連文献】
中島敦 『李陵』 李陵を題材にした歴史小説新潮文庫・角川文庫ほか多数。

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史記の風景』 宮城谷昌光/著 新潮社 1997年発行
武帝への復讐 (一部抜粋しています)
司馬遷という人は正義感の強い人であったようだ。その正義感が李陵の事件に発揮され、かえってわざわいをこうむった。
李陵は司馬遷の僚友といってよい。
漢の武帝が李陵に八百の騎馬をあたえたところ、李陵は敵地である匈奴の地を二千余里も侵入して帰ってきた。その勇気をめでて、武帝は5千の歩兵を李陵にあたえたのである。李陵はその兵をきたえて強兵にしたあと、武帝に出撃のゆるしを請い、匈奴征伐をおこなった。ところが匈奴はその五千の兵を八万の兵で包囲したのである。さすがの李陵も力つきて、匈奴に降伏した。
その行為を武帝への裏切りではないと信じた司馬遷は、李陵を弁護したのである。が、やがて李陵が匈奴の将となったことがわかり、激怒した武帝によって、李陵の母や妻子は処刑され、司馬遷宮刑に処せられた。このときから司馬遷の正義感は、おもてにはあらわれず、自分が手がけている『史記』のなかにこもったにちがいない。
「列伝」の冒頭をかざっているのは、「伯夷(はくい)列伝」である。伯夷と叔斉(しゅくせい)という兄弟が、生国をのがれて、理想の王をさがしもとめたすえ、現実に絶望し、首陽山に隠れ住むうちに餓死したという話である。史実というよりむしろ神話に属するようなこの話を、個人の伝記にあたる「列伝」のはじめにもってきた司馬遷の意(おも)いの哀しさとすさまじさは、読む者の胸をはげしく打たずにはおかない。