じじぃの「サムライとスフィンクス・幕末一枚の写真!歴史と人物」

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サムライとスフィンクス 写真
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『ロンドン塔の幽霊たち』 綱淵謙錠/著 文藝春秋 1991年発行
幕末の日本とフランス (一部抜粋しています)
この作品は初めは「歴史と人物」の昭和59年8月号から連載を開始したのであるが、その第2回の「サムライとスフィンクス」という章で、わたくしは有名な幕末写真の一枚である、エジプトのスフィンクスを背景として撮影された日本人武士団の一行の写真について述べている。いかに幕末とはいえ、2世紀以上もの長いあいだ<鎖国>を国定としてきた日本国の、しかもれっきとした武士団が、ところもあろうにカイロ郊外の巨大なスフィンクスの前出記念撮影をしている光景というのは、その経緯がわかななければ、なんとも不思議な、衝撃的ともいうべき写真であった。
この日本人武士団というのは、幕末の日本政府(徳川幕府)が海外に派遣した前後5回にわたる使節団のうちの第3回に当る池田筑後守遣欧使節団の一行(総勢34名、他に通訳としてフランス人ボレックマン)で、文久3年12月29日(1864年2月6日)に横浜を出航したサムライたちである。そしてこの使節団の派遣目的は、5年前の安政6年(1859)に開港したばかりの横浜を閉鎖し、貿易を長崎と箱館に制限しようという幕府要求をもって、ヨーロッパの通商条約締結国(フランス・イギリス・オランダ・プロシャ・ロシア・ポルトガル)をそれぞれ歴訪し、これを承認させることであった。
しかし、この使命の到底達成できそうもないことは、幕府自身がいちばんよく知っていた。すでに前年の文久2年(1862)にヨーロッパに派遣された竹内下野守使節団が、江戸・大阪の開市、兵庫・新潟の開港の延期を承認させりために各国を歴訪したばかりであり、それはなんとか承認させはしたものの、さらに横浜鎖港を要求するというのは、いくら攘夷派の妨害によって国内世論が沸騰し、幕府が窮地に陥っているといっても、現に横浜での貿易で巨利を博している列強がおいそれとそれを認めるはずもなかった。
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池田使節団の最初の訪問国はフランスであった。そしてフランスには横浜鎖港交渉のほかに、大きな仕事が2つあった。ともにフランス政府への謝罪問題である。
1つは、長州藩の下関におけるフランス通報艦キンシャン号砲撃事件に関する謝罪であり、もう1つは、同年(文久3年)9月2日(1863年10月14日)、横港郊外井戸ヶ谷で起きたフランス陸軍中尉アンリ・カミュ殺害事件に関する謝罪である。これは遠乗り中のカミュ中尉を3名の攘夷派浪人が射殺した事件で、結局犯人は挙がらなかった。
このような重大かつ困難な使命を帯びた使節団の一行が、はたして自分たちの派遣された陰の理由についてどの程度の認識をもっていたかはわからない。おすらく全員使命達成の一念にひたすら燃えていた、といってよだろう。したがってエジプトに入ったときの一行は、いよいよもう1つ地中海をわたれば目指す最初の訪問国フランスだと、はやる気持ちでいっぱいだったはずである。
当時、スエズ運河はまだ掘削中であり(これから5年後に開通)、一行は汽車でスエズ港からアレキサンドリア港に赴く途中、カイロに立ち寄ってマルセーユ行きの便船を待つあいだに、ピラミッド見物に出かけたわけだ。
この使節団の随員の一人に金山佐輔(かながみさすけ)という会津人がいた。金山は会津若松馬場町に生まれたが(天保7年・1836)、会津藩士ではなく、当時、正使池田筑後守に学問の賓師として迎えられていた人で、池田の従者の資格でこの旅行に同行していた。
金山は明治になってから佐原盛純(さわらもりずみ)と改名し、会津中学校などで教鞭をとり、有名な「少年団結す白虎隊」の漢詩の作者として知られる。そして金山は明治37年10月に、このときの旅行日記を出発から帰国まで克明に謄写し、「航海目録」(全4巻)と名づけて子孫に遺した(現在、会津図書館蔵)。
この金山の「航海目録」によると、一行が「三角山(ピラミッド)」と「首石(スフインクス)」を身に出かけたのは文久4年2月28日のことである。文久4年という年は日本では2月20日(一行がカイロに到着した翌日)に「元治」と改元されていたが、かれらはまだ「文久」の空気の中で呼吸していた。この日は洋暦では1884年4月4日に当たる。
さらに金山の目録によると、この日、カイロのホテルに居残ってピラミッド見物に行かなかったのが副使の河津伊豆守と田辺太一、それに金山自身も含めて7名だったという。したがってスフインクスの前で写真を取った日本人サムライは27名、それにブレックマンの計28名となる。
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田辺太一の娘竜子(たつこ)は三宅雪嶺に嫁ぎ、<三宅花圃(かほ)>のペンネームで作家・歌人として知られた。三宅立雄は雪嶺・花圃夫妻の孫であり、田辺太一からは會孫に当たる。
かって国際法の権威で幕末維新史の研究に大きな足跡を遺した尾佐竹猛(おさたけたけき)博士が、その著「夷狄(いてき)の国へ(幕末遣外使節物語)」の中で、
<このスフインクスの下にて一行の撮影した写真が三宅雪嶺氏が所蔵せられて居る、古来スフインクスの付近を通過したものは無数にあるが、陣笠のサムライの通ったのは空前にして絶後であろうとの三宅氏の言は面白く感ぜられる>
と書いているように、確かにこの写真はわが国のサムライの海外渡航史上、<空前にして絶後>の貴重な写真といってよいだろう。

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どうでもいい、じじぃの日記。
綱淵謙錠著 『ロンドン塔の幽霊たち』という本に「幕末の日本とフランス」というのが載っている。
そういえば、スフィンクスの前で日本人の侍たちの記念写真をどこかで見たことがあった。
「池田使節団の最初の訪問国はフランスであった。そしてフランスには横浜鎖港交渉のほかに、大きな仕事が2つあった。ともにフランス政府への謝罪問題である。1つは、長州藩の下関におけるフランス通報艦キンシャン号砲撃事件に関する謝罪であり、もう1つは、同年(文久3年)9月2日(1863年10月14日)、横港郊外井戸ヶ谷で起きたフランス陸軍中尉アンリ・カミュ殺害事件に関する謝罪である」
スフィンクスの前で記念写真を撮った侍たちはフランスに行く途中で、エジプトに立ち寄ったのか。
「古来スフインクスの付近を通過したものは無数にあるが、陣笠のサムライの通ったのは空前にして絶後であろう」
確かに写真を見ると、侍たちは陣笠をかぶっている。当時の侍たちは、当時の日本のスタイルで外国に行ったんだ。陣笠は日除けの傘だったわけだ。
文章で、なんだかんだと説明されても、この写真一枚で、当時の彼らの姿が想像つく。
そして、今はユーチューブ(YouTube)なのだ。