鉄砲館に韓国KBS放送が取材にやってきた!
火縄銃
『世界史の新常識』
文藝春秋/編 文春新書 2019年発行
中世・近世
明を揺るがした日本の火縄銃 【執筆者】久芳祟 より
1592年3月。天下統一を果たした豊臣秀吉は、中国明朝の征服を企図して、現在の佐賀県唐津市に新たに築城した名護屋城から大軍を朝鮮に派兵した。世に言う朝鮮の役(文禄・慶長の役。1592~1598年)である。対馬海峡を渡った日本軍は、破竹の勢いで勝利を重ね、上陸から20日あまりのうちに漢城(ソウル)をも征服した。この緒戦における快進撃の原動力となったのが、大量に装備された日本刀、そして鉄砲(火縄銃)であった。
朝鮮の危機に直面し、宗主国である明朝は救援軍の派遣を決めた。救援軍の第一陣として7月に挑戦に到来したのが、遼東副総兵(武官最高職の総兵官に次ぐ職)祖承訓(そしょうくん)であった。配下の兵3000を率いた彼は、依然として平壌に日本軍が駐留しているのを聞き、天が我が戦功を挙げるのを助けてくれているのだ、と祝杯をあげたという。功名心にかられた彼は、朝鮮重臣柳成龍の制止に耳を貸さず、豪雨と泥濘(でいねい)という悪条件の中、火器装備もなく平壌城へと突入した。子飼いの騎馬軍を率いて強行突破し、相手を威圧し殲滅するという、モンゴル族に対するのと同様の得意の戦術で平壌城七星門に足を踏み入れた彼らに、待ち構えた日本軍による鉄砲の一斉掃射が浴びせられた。銃弾が雨のように降り注ぎ、「承訓は命辛々敗走し、帰還兵は三千のうち数十人のみであった」(『両朝平壌録』)という大敗であった。
これ以降、明軍は日本軍の鉄砲に戦役を通じて苦戦する。
中国で活躍した日本兵捕虜
では、日本軍の鉄砲に苦戦した明朝と朝鮮には鉄砲はなかったのか。
実は鉄砲は日本と同じく16世紀半ば頃には明朝にも伝来していた。明朝の鉄砲伝来については、既に明代より諸説あるが、鄭若曾『籌海図編(ちゅうかいずへん)』という中国史料の記述などから、その製法がまずポルトガルから伝来したが精巧に模造できず、次に1548年に倭寇勢力の密貿易拠点であった浙江双嶼を明軍が攻撃した際に捕虜とした人物(「番酋」)を通して製法が伝えられたとされている。その他、中国沿岸諸地域にもほぼ同時期に伝来した。1558年には1万余挺の鉄砲が明朝で製造された。また倭寇やモンゴル征伐に赫赫(かくかく)たる戦果を挙げた武将戚継光(せきけいこう)らによって鉄砲が積極的に導入され、少なからぬ効果を上げた。ただしこの時期の明朝において、鉄砲は主要兵器としては位置づけられていなかった。
火器技術を吸収した女真族
明朝とは対照的に、火器を積極的に導入し17世紀前半に台頭したのが女真族勢力である。当初女真族勢力は屈強な騎馬軍団をたのみにして勢力を拡大し、サルフの戦いでは劉 糸+廷 ら明軍と降倭鉄砲隊を含む朝鮮軍との混成軍を撃破した。
しかし1626年お寧遠城での戦闘で、女真族は火器導入の重要性を痛感することになる。明朝官僚の袁崇煥(えんすうかん)が守るその城にはマカオから購(あがな)われた紅夷砲11門が設置されており、騎馬軍で突進するヌルハチ率いる女真族を完膚(かんぷ)無きまでに撃破したからだ。
ヌルハチ亡き後も、女真族を率いたホンタイジは、積極的に火器技術受容をはかり、火器製造・使用技術に通いた人材を積極的に採用した。
皮肉なことにヌルハチを圧倒的な火力で退けた袁崇煥は、その後皇帝の不興を買い失脚した。かかる状況下において、脆弱な立場にあった明朝側人材の女真族への投降が増加した。多くの投降武昌が厚遇の見返りとして女真族に手渡したのが、膨大な数の火器と火器技術であった。彼らは八旗の火器専門部隊として編制され、のちの清朝による中国支配に重要な役割を果たすようになる。