じじぃの「科学・芸術_82_日清戦争・平壌の戦い」

Battle of Pyongyang (平壌の戦い)  動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=O5dugSLLK1A
平壌の戦い (sinojapanesewar1894.com HPより)

日清戦争の戦史 序盤戦③ 平壌の戦い 朝鮮から清国軍を駆逐
成歓の戦いに勝利して、清国軍はソウルの周辺からはいなくなったものの、平壌に集中していて、朝鮮から駆逐されたという状況ではありませんでした。成歓の戦いから約1ヶ月半後、1894年9月15日に平壌の戦いが起こります。
http://sinojapanesewar1894.com/530pyongyang.html
朝鮮紀行―英国人の見た李朝末期』 イザベラ・バード/著、時岡敬子/訳 講談社 1998年発行
松都から平壌 (一部抜粋しています)
平壌の城壁は起伏に合わせて丘を2マイル上がったあと、楼閣の建っている地点で急に折れ曲がる。楼閣の外側は絶壁になっており、刃のような尾根となってふたたび隆起する。最も高い3つの地点に清国軍の砦がある。この楼閣から城壁には地形に従って急勾配でくだり、くだったところに趣のある狭い門七星門がある。そのあと城壁は北西に向きをとり普通門にいたる。
松林のなか、城壁のなす角のいちばん高い部分に左将軍は三基の土塁、すなわち高さ10フィートの土壁をめぐらした野営地を築いた。木陰の地面には石をならべた炊飯用の穴があり、穴は最後に燃やした火の煙で黒ずんでいた。1894年9月15日の午後、左将軍は奉天出発時の5000人から脱走したり死んだりで隊員の大幅に少なくなった群を率いて最後の出撃を行った。七星門をくぐり、急勾配の坂を平野に向ってジグザグにくだり、そして門からおそらく300ヤードと離れていないところで斃(たお)れたのである。朝鮮人の話によれば、部下が将軍の遺体を運びだそうとしたが、その途中で銃弾に遭い、あとにつづいた修羅場で遺体はどうなったかわからないという。
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その夜は月が明るく、日本軍は敵陣の要である尾根の砦3ヵ所を強襲し、砦と野営地に砲弾を命中させた。城壁の折れ曲がる地点にある美しい楼閣は大きく破損し、ふんだんに彫刻をほどこした木造部と柱も流れ弾を受けている。強襲された旅団は最後に残った砦からあわてて逃げだしたが、急な山腹を駆け下りる途中で大量の兵士がなぎ倒され、頭からつっ伏す形で延ばした両手に土をつかみながら死んでいった。
それですべては決まった。当時おそらく1万2000の兵力があった悲運の軍隊がなぜ無条件降伏をしなかったのか、わたしには知るよしもない。その夜左将軍の旅団の残兵と全歩兵隊、そして無傷の兵士はいっさいの武装を解き、人気(ひとけ)のない閑散とした市街を通って普通門を抜け、浅い川を渡って低い丘陵に囲まれた平野に出た。北京街道の通るこの平野は清国軍の砦と塹壕のある最東端だった。左将軍の旅団は平野を渡って丘陵の避難する道をとり、歩兵隊の大部分は北京街道を進んだ。
その夜の惨事の詳細についてはだれにも永久にわかるまい。平城での戦闘は鳥でを破られた時点で勝負がついたのであり、そのあとに起きたのは戦闘というより殺戮だった。夜が明けるまでに、統率力と装備で清国軍の花形だったこの部隊は消失した。敗残兵を集めて再編成されることもなかった。戦死者は2000名から4000名と推定され、また何千頭もの牛馬が死んだ。この騎兵隊は文字どおり大量殺戮を受け、人馬は「山と」積み重なった。日本軍は平野を放火の輪で取り囲んだのである。
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城内の小高い丘の上に、日本人は戦没者168名の慰霊塔を建てた。《軍神堂》を病院に変え、日本人負傷兵はいうまでもなく手厚く看護されたし、また清国軍負傷兵も、当然その多くが負傷がもとで死んでしまったあとであるとはいえ、べつの建物できめ細やかな看護を受けた。清国軍兵士の死体を放置した報いはいまわしい形で起こり、発疹チフスが突如流行した。この病気が日本軍に対していかに猛威をふるったかは、済物浦の日本軍墓地にある墓碑の長い列からある程度推測できる。
城壁の外のみごとにけずりとられた断崖には松の枝にいまでも弾丸が残り、多くの枝が鉄の霰(あられ)を浴びて裂けている。また朝鮮文明の開祖である箕子(キジヤ)の陵廟は激戦の場となったにちがいなく、廟が弾痕で穴だらけになり砲弾による損傷も受けている。床に残っている大きな黒いしみは、戦いが終ったとき、血まみれの日本兵が横たわった跡である。
いくつかの地点、とくに渡し場わきの塹壕で清国軍は10時間におよぶ決死の抵抗を試み、動揺した日本軍は大島[義昌]少将の果敢な突撃でようやく勢いを盛り返したのだった。おそらく平壌での戦いは日清戦争の運命を決定したのではなかろうか。