名古屋検疫所 | ペスト
ペストは現代も世界各地で発生しています。発生地域は下図のとおりです。
アメリカ合衆国でもロッキー山脈周囲で広範囲にペスト菌の分布が確認されています。
https://www.forth.go.jp/keneki/nagoya/id/id_plague.html
『ケミストリー世界史 その時、化学が時代を変えた!』
大宮理/著 PHP文庫 2022年発行
第7章 モンゴルとイスラームの時代 より
西ローマ帝国の滅亡後、ヨーロッパはゲルマン人のさまざまな部族国家がちまちまと乱立して混乱期にありました。そうしたなか、フランク王国のカール1世が領土を拡大し、ビザンツに対抗するため、ローマ教皇から皇帝として戴冠されました(800年)。
カール1世自身はゲルマン人ですからローマとは何のつながりもありませんが、栄光のろーま帝国が”概念”として復活し、以降、偉大なローマ帝国へのあこがれから大なり小なり摸倣のような国が現れつづけました。その最大のものが、のちの神聖ローマ帝国です。
一方、ユーラシアでは、騎馬民族のモンゴル人の勢力が拡大し、地中海世界の覇者となったのはイスラーム勢力でした。アラブ人が過酷な自然現象のもとで強い精神をもっていたこと、新しい宗教で新進気鋭のスピリッツがあっとこと、ウマとラクダによる砂漠地帯での補給に慣れていたこと、イスラーム軍の規律が厳しく、占領地の民衆に寛容だったこと、などがあげられます。
1346~53年 ペストの前夜――スラヴ人奴隷の売買で栄えたカッファ
●植民地エジプトから地中海沿岸一帯に広がっからペストは始まった
歴史を変えた疫病として有名なペスト(黒死病)の病原菌に、人類はすでに5000年前に感染していますが、そのあと、第1のパンデミックとなるのは、541年から流行した「ユニティニアヌスのペスト」(エジプトから地中海沿岸一帯に広がったペスト)です。第2のパンデミックは、中央アジアから中国で発生した説があり、モンゴルとの交易を介して西側に広がっていきました。
ジェノヴァ人がつくった植民地カッファ(現在のフェオドシア)は黒海に面し、クリミア半島の港湾都市として交易で栄えていましたが、交易の中身はなんと奴隷でした、現在のウクライナ周辺は、当時、強力な国家がなく、奴隷を集めるのには格好の場所でした。
周辺のスラヴ人を奴隷(東方正教会はカトリックから見ると異教徒でした)として集め、東部地中海(レバント)などのイスラーム商人に輸出していたのです。英語で奴隷のことを「slave」というのは、スラヴ人奴隷からきた言葉です。
1346年 ペスト=生物兵器――ペストの遺体を城壁の中に投げ込む
●ペスト菌は何年にもわたって伝播する
百年戦争でイングランド軍がクレシ―の闘いでフランス軍を壊滅させた1346年、西進するモンゴル軍(キプチャク・ハン国)がカッファを包囲しましたが、モンゴル軍のなかでペストが蔓延し、包囲戦は停滞します。モンゴル軍は撤退を余儀なくされ、ペストで死んだ遺体を投石器を使って城壁の中に投げ込みました。いまでいうところの生物兵器です。
城壁内ではペストの感染が拡大し、人びとはさまざまな物品とともに船でジェノヴァに移動しました。しかし、ベストはイタリアのシチリア島のメッシーナ、さらにフランスのマルセイユに、カッファから入った毛皮についていたノミなどにより伝播していきます。さらに、パリやスペイン、ロンドンまでペスト禍が広がり、ヨーロッパの人口の3分の1以上が亡くなりました。
ヨーロッパは惨禍に見舞われ、大混乱に陥りました。ペストの原因についてはもちろんわからないので、ユダヤ人が井戸に毒を投げ入れたからだというデマが流れ、人びとがユダヤ人狩りを行い、多くのユダヤ人が虐殺されました。
1377年 検疫が始まる――ペストが収まったあと、社会は一変する。
●検疫を緩めると1日で3500人の死者
東方からの貿易船にペストの原因があると気づいたヴェネツィアでは、1377年(日本では足利義光が全盛のころ)、船内に感染者がいることが疑わしい船に関して、上陸前にはじめは30日間、のちには40日間の停泊を義務づけるようになりました。もし船内に感染者あるいは感染源があれば、そのあいだに発病して感染が判明するからです。
今日、検疫のことを英語で「quarantine」といいますが、イタリア語の40にあたる「クアランタ」からきています。
この検疫の有効性を見せつけたのが、250年後の事件です。1629年もミラノにペストが襲来したとき、最初は大流行には至りませんでしたは、翌30年、ミラノのカーニバルを開催するために検疫を緩めたところ、一気に流行して1日当たり3500人も亡くなったのです。
●教会の権威は失墜
中世のペスト禍は、ヨーロッパを大きく揺さぶりました。社会構造や人びとの精神に途方もない影響を与えたのです。
ペスト禍で混乱が起きると、人びとは教会や神に救済を求めましたが、波のようにくりかえされる惨劇に、やがて宗教の無力さを知ります。教会の権威は失墜しました。
ペストにかかると、王侯貴族から聖職者、領主や富裕層といった身分に関係なく亡くなりました。人びとは「メメント・モリ(死を想え)」というラテン語の警句を試に刻みました。
ペストが収まると、死んだ人たちの莫大な資産が生き残った人びとに残されました。職人や農民も大勢なくなったので労働者不足から賃金が上がり。労働力不足を補う技術開発も始まりました。
農村人口の激減により、濃度によって支えられてきた中世の象徴である荘園制は崩壊し、生き残った農民の地位は向上しました。領主の不当な要求に対して、農民一揆や反乱が多発するようになったのです。
こういった社会構造と時代の精神の大きな変化が、ルネサンスや宗教改革につながっていくのです。
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どうでもいい、じじぃの日記。
「百年戦争でイングランド軍がクレシ―の闘いでフランス軍を壊滅させた1346年、西進するモンゴル軍(キプチャク・ハン国)がカッファを包囲しましたが、モンゴル軍のなかでペストが蔓延し、包囲戦は停滞します。モンゴル軍は撤退を余儀なくされ、ペストで死んだ遺体を投石器を使って城壁の中に投げ込みました。いまでいうところの生物兵器です」
「世界におけるペスト菌の分布状況」の図表(赤い地域)を見てみると、中央アジアが多い。
一見すると、水道施設が未発達の国が多いのかなと思わせる。
しかし、何で、アメリカの西半分が赤く塗りつぶされているんだ?
メメント・モリ(memento mori)・・・「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」「死を想え」という意味を持つラテン語の言葉。現代では主に「死を意識することで今を大切に生きることができる」という解釈で用いられることが多い。生きている者すべてに訪れる最期を意識させるこの言葉は、古代ローマから現代に至るまで様々な人々にインスピレーションを与え、思想はもちろんのこと芸術作品などにも強く影響を与えている。
私も、「メメント・モリ」の状態です。