じじぃの「カオス・地球_391_死因の人類史・第4章・北里柴三郎」
Von Behring & Kitasato - the Birth of Serology
History and overview of immunology

「"cool-hira" 北里柴三郎」画像検索
Antecedentes historicos de la inmunologia e inmunoterapia
Si bien Pasteur demostro que la vacunacion funcionaba, desconocia la causa de este efecto. Emil von Behring y Shibasaburo Kitasato en 1890 descubren el mecanismo de la inmunidad, al demostrar que el suero de animales afectados de difteria transferia inmunidad contra la enfermedad a otros animales, luego de ser inoculado utilizando el mismo suero. Este descubrimiento significo el Premio Nobel para ambos investigadores en 1901.
https://www.imii.cl/antecedentes-historicos-de-la-inmunologia-e-inmunoterapia/
死因の人類史
【目次】
序章 シエナの四騎士
第1部 さまざまな死因(死とは何か?;『死亡表に関する自然的および政治的諸観察』 ほか)
第2部 感染症(黒死病;ミルクメイドの手 ほか)
第3部 人は食べたものによって決まる(ヘンゼルとグレーテル;『壊血病に関する一考察』 ほか)
第4部 死にいたる遺伝(ウディ・ガスリーとベネズエラの金髪の天使;国王の娘たち ほか)
第5部 不品行な死(「汝殺すなかれ」;アルコールと薬物依存 ほか)
結び 明るい未来は待っているのか?
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
『死因の人類史』
アンドリュー・ドイグ/著、秋山勝/訳 草思社 2024年発行
疫病、飢餓、暴力、そして心臓、脳血管、癌…人はどのように死んできたのか?
有史以来のさまざまな死因とその変化の実相を、科学的・歴史的・社会的視点から検証した初の試み、壮大な“死”の人類史。
第2部 感染症 第4章 黒死病 より
ペストの蔓延を食いとめる検疫システム
死をもたらす伝染病として、ペストはまさに典型例だったが、6世紀の「ユスティアヌスの疫病」から、ペストを効果的に封じ込める方法が見つかるまで実に800年の年月を要した。
そのころになると、イタリアの都市国家の政府や医師は、ペスト発生の条件となる不潔で劣悪な住居、汚れた水、貧困について率先して対処するようになった。ペストの犠牲者を隔離する病院が建設され、通りを清め、糞便清掃を専門に行う部門が整えられ、都市の門や峠の関所には守衛を配置してペストの蔓延を防いだ。また、ヨーロッパの全域、アジアやアフリカの一部に秘密の監視網を整備してペストの発生を報告させていた。このような体制を整えたことで、イタリア半島は1650年ごろまでにはペストを追い払った最初の地域となり、あとに続くほかの国々の模範となった。もちろん、感染症としてのペストの原因は依然として謎のままで、治療法も確立されていなかったが、ヨーロッパで猖獗(しょうけつ)を極めた黒死病は、その蔓延を食いとめるシステム――「検疫(クアランティン)」を生み出すことになった。
ペスト菌の発見
アレクサンドル・エルサンは1863年にスイスで生まれ、のちにフランスに帰化した。パリではルイ・パスツールとドイツの微生物学者ロベルト・コッホのもとで働き、狂犬病のワクチン開発を手伝った。当時、細菌学を学ぶとすれば、これ以上に環境はなかっただろう。パスツールとコッホは、特定の微生物が感染症の原因であるという「細菌説」を提唱したパイオニアだった。パスツールは、ワインやビールが酢に変化するのは微生物によるものであることを示し、病気についても微生物によって引き起こされる可能性を示唆した。コッホは医師で、結核やコレラなど多くの感染症の原因究明について主導的な役割を果たした。その後、コッホの手法は、腸チフスやジフテリア、破傷風、ハンセン病、淋病、梅毒、肺炎、髄膜炎など、多くの病気の原因菌の発見に使われることになる。コッホは、これらの病気の原因を発見しただけでなく、特定の微生物が特定の病気を引き起こすかどうかを証明する4つの原則を提唱していた。
1 特定の病気にはかならず特定の微生物が存在しており、健常な生体には存在しない。
2 その微生物は病気の宿主から分離され、純粋培養されたものでなければならない。
3 純粋培養したその微生物を健康な成体に感染させると、同じ病気が再現される。
4 実験的に感染させた宿主から微生物が分離でき、ものの原因菌と同一であることが示されている。
1894年、エルサンと日本の細菌学者北里柴三郎は、ペスト調査のためにそれぞれ香港に派遣された。2人は独自に研究を進めたが、原因究明にはコッホの4つの原則が用いられた。北里もコッホの元教え子で、ベルリンでいっしょにけんきゅうしていたときには破傷風とジフテリアの抗毒素の開発に協力している。香港で数ヵ月を調査したのち、北里とエルサンはそれぞれ感染者の死体の膿汁から細菌を取り出し、ブイヨン培地で増殖させることに成功する。それをマウスに注射すると、細菌は急速に増殖してマウスは死んでしまった。1894年、6月、北里とエルサンはペスト菌の分離培養に成功したと発表、北里のほうが先に発見していたにもかかわらず、彼の培養液には別の細菌種が混入していた疑いがあり、またエルサンのほうがさらに徹底した細菌の特徴づけがなされていた。そのため、ペスト菌は1970年にエルサンの名前をとって「エルシニア・ペスティス」と命名されている[それまではパスツールにちなんで、「パスツレラ・ペスティス」と呼ばれていた]。
ネズミとペストの関係は少なくとも1000年前から疑われてきた。実際、エルサンも香港の通りでたくさんのネズミが死んでいるのを見て、ネズミもペストが原因で死んだのではないかと考えていた。そして、パスツール研究所のポール=ルイ・シモンもそう考えた1人だった。1897年、シモンはボンベイ[現在のムンバイ]に派遣されてエルサンの研究を続けた。調べていくうちに、ペスト患者の足や脚にペスト菌でいっぱいの小さな水泡ができていることに気づいた。これはノミの咬傷で、そのノミは最近までペストに感染していたネズミを宿主にしていたのではないかとシモンは考えた。死んだばかりのネズミには非常に多くのノミがわいていることにシモンは気づいていたのだ。
・
また、感染した患者だけでなく、ネズミやネズミに寄生するノミに対処すれば、ペストは予防できるとシモンは的確に見抜いていた。現在では、ペストの感染に先立ってネズミの集団で大感染が発生することがわかっている。ネズミの大量死が始まると、宿主を失ったペスト菌を保有するノミはほかの吸血先を探し求めるのだ。シモンの実験がまさにこれだったのである。
ペスト菌発見をめぐる悲劇は、あまりにも長い時間がかかった点にある。細菌のような微細な対象を観察できる顕微鏡はすでに17世紀の時点で利用でき、病気は細菌によって広がるという考えはさらにそれ以前から唱えられていた。一例をあげるなら、スイスの医師フェリクス・プラターは、1597年と1625年に発表した論文で、ペストや梅毒は感染が病気の基本的な条件だと詳細に論じていた。だが、顕微鏡があったにもかかわらず、200年ものあいだ、このような説が実験を通じてきちんと追試されることはなかった。