じじぃの「歴史・思想_200_人類と病・『デカメロン』に見る中世のペスト」

デカメロン』、あるいは感染症によって引きこもった人々の物語(2020)

2020/03/18 note
1348年のペスト大流行の際、フィレンツェ市内の寺院で葬儀に参列した男3人と女7人の10人が禍を避けるために郊外の別荘に引きこもる。
彼らはパンフィロ、フィロストラト、ディオネオ、パンピネア、フィアンメッタ、フィロメナ、エミリア、ラウレッタ、ネイフィレ、エリッサである。退屈しのぎに、10人が10日間に亘り1人1日1話ずつ語り合うことになる。
https://note.com/savensatow/n/n72ffeebaa648

楽天ブックス:人類と病 - 国際政治から見る感染症と健康格差 (中公新書 2590)

詫摩佳代(著)
【目次】
序章 感染症との闘い――ペストとコレラ 001
1 ペストと隔離 002
  アジアからヨーロッパへ
  『デカメロン』に見る中世のペスト
  隔離政策への反発
https://books.rakuten.co.jp/rb/16258112/

『人類と病』

詫摩佳代/著 中公新書 2020年発行

感染症との闘い――ペストとコレラ より

アジアからヨーロッパへ

中世のヨーロッパにおいては、伝染病の眼病であるトラコーマ、ハンセン病マラリアなど様々な感染症が流行していた。ハンセン病は、らい菌という細菌により起こる慢性感染症であり、感染の結果、主に末梢神経(脳と脊髄以外の神経)、皮膚、精巣、眼、鼻、のどの粘膜に障害が起こる。ハンセン病は中世ヨーロッパで猛威を振るい、近世に入ってもピークが去ったといえ、風土病としてくすぶり続けた。一方、マラリアは熱帯地方の風土病であるが、耐寒性の羽斑蚊(はまだらか)がマラリアを各地に運び、地中海沿岸を中心に流行が繰り返された。このほか、結核も風土病として蔓延し、中世後期には栄養不足や貧困に苦しむ地域を中心に繰り返し流行した。
このようななかでも、中世ヨーロッパ社会に壊滅的な打撃を与えたのが、1347~52年にかけて猛威を振るったペスト(黒死病)であった。ペストの流行は1400年頃まで断続的に続き、特に1347~52年にかけては人口の約3分の1程度が犠牲になったといわれている。
そもそもペストとは、ペスト菌に起因する感染症で、ペストに感染したネズミから吸血したノミを介して、人から人へと感染する。ペストは元来、現在のカザフスタン周辺に生息するネズミなどの齧歯(げっし)類の間で流行する動物の風土病であった。

デカメロン』に見る中世のペスト

イタリア・ルネサンスの作家ジョヴァンニ・ボッカッチョは、1348年フィレンツェを襲ったペストの惨状を目の当たりにし、それをもとに『デカメロン』を執筆した。彼自身、父親を1349年にペストでなくしている。『デカメロン』はボッカッチョがフィレンツェで見聞したことをもとに著したものであり、600年以上前の、ペストに直面した人類社会の様子を克明に知ることができる。ペストの症状についてはボッカッチョの言葉を借りよう。
  病気の初期の段階でまず男女ともに鼠蹊(そけい)部と腋(わき)の下に一種の腫瘍を生じ、これが林檎(りんご)大に腫れあがるものもあれば鶏卵大のものもあって、患者によって症状に多少の差こそあれ、一般にはこれがペストの瘤(こぶ)と呼び習わされた。そしていま述べたように、身体の2個所から、死のペストの瘤はたちまちに全身にひろがって吹きだしてきた。その後の症状については、黒や鉛色の斑点を生じ、腕や腿(もも)や身体の他の部分にも、それらがさまざまに現われて、患者によっては大きくて数の少ない場合もあれば、小さくて数の多い場合もあった。こうしてまず最初にペストの瘤を生じ、未来の死が確実になった徴候として、やがて斑点が現われれば、それはもう死そのものを意味した。(ボッカッチョ、上巻、19頁)
ペストには腺ペストと肺ペストといういくつかの種類が存在するかが、中世のヨーロッパで蔓延したのは腺ペストであった。引用中の「黒や鉛色の斑点」というのは、壊死(えし)や皮下出血によるもので、黒く見えるため、16世紀以降「黒死病」と呼ばれるようになった。
その後、1894年のペスト菌が発見され、1943年にペストや結核に有効な抗生物質ストレプトマイシンが発見されたことにより、ペストの脅威は大きく減退した。ちなみに現在では、アフリカやアジア、南米を中心にペストの症例は確認されているが、抗菌剤で適切な治療を行えば治療する。日本では1926年以降、患者は出ていない。しかし、感染メカニズムが科学的に解明されていない14世紀半ばのヨーロッパでは、人々は汚物を浄(きよ)めたり、隔離を試みたり、消毒を行ったりするが、その努力も虚(むな)しく、多くの人が亡くなった。その惨状は「あたり一面に死臭と病人の悪臭とか漂い、薬剤の臭気の漲(みなぎ)っていたさまが、察せられるであろう」(ボッカッチョ、上巻、23頁)という一文に凝縮されている。ついに死者を埋葬する場所がなくなり、「死体置き場には、船倉に貨物を積みあげるみたいに、亡骸(なきがら)が層をなし重なり、その上にわずかな土が振りかけられたが、それもたちまちに溢(あふ)れて溝いっぱいになってしまった」(ボッカッチョ、上巻、28頁)。
科学的なメカニズムが解明されていないなかでも、大量の人が亡くなっていく現象を説明しようという試みがなされ、大まかに2つの説が登場した。第1は、病気は腐敗した食物や空気の汚染によって媒介されると考える瘴気(しょうき)説(ミアスマ説)である。この説は、そうした悪い空気(ミアスマ)を吸い込むのを避けるために、身体を疲労させないようにすること、音楽に触れたり、楽しく快活にしているように努めることなどが、病気にかからなう方策として推奨された。『デカメロン』は、ミアスマを逃れるためにフィレンツェ郊外に逃れてきた者たちの物語である。
もう1つの説が感染説(コンティジョン説)である。この説は、ペストの害気を吸い込むと、体内で心臓と肺に集まり、毒素が変成され、その毒素を吸い込んだ他者が感染するという説である。