じじぃの「歴史・思想_201_人類と病・コレラ・クリミア戦争での蔓延」

Florence Nightingale chapter 10 HD Restored

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=_4-oOsRGKuo

Florence Nightingale

大下容子ワイド!スクランブル

2020年4月13日 テレビ朝日
【司会】 小松靖大下容子 【コメンテーター】マライ・メントライン(ドイツ放送プロデューサー)、瀬尾傑(スマートニュースメディア研究所所長) 【解説】池上彰(ジャーナリスト)、増田ユリヤ(ジャーナリスト)

池上彰増田ユリヤ・徹底生解説 人類が得た盾と矛 より

感染症を歴史から見てみる。
感染症 人類が得た“盾と矛”
盾:病原体から守る予防薬・ワクチン。
矛:病原体をやっつけるための治療薬・抗菌薬。
生物由来のものが抗生物質
代表的なものがイギリスの細菌学者フレミングが発見したペニシリン
ウイルスの治療薬は抗ウイルス薬といわれ、最近注目されているアビガンなどがある。
危険な感染症をこの世から一掃しようという人類の闘いが1つだけ成功したものがある。
ナイチンゲールが広めた公衆衛生
ゼンメルワイスハンガリー出身の医師)と関係のないところで公衆衛生の大切さを見つけ、世に広めようとした人がいた。
イギリスの看護婦のナイチンゲールクリミア戦争で看護師として活躍したということで有名。
看護師として従軍したが現地の軍医の方たちに軽視された。
いわゆる女性蔑視。なかなか仕事に入れなかった。
どの部署の管轄でもなかったトイレ掃除などを一生懸命になって行い病院での居場所を確保していった。
仕事ができるようになった彼女は多くの兵士たちが死んでいくのはけがが直接の原因ではなく、ナイチンゲール感染症で死亡する兵士が多いことに着目。
掃除をして部屋の換気を行い、下水処理を行い、シーツを交換、包帯を清潔なものにして病床を徹底的に清潔にした結果、死亡率がグンと下がった。
全体の8分の1まで減ったというデータがある。
その資料をきちんと作ってみんなと共有して検証してということで国にその統計資料を報告。
数字やグラフを武器に国会での説明を行う姿からナイチンゲールへの敬意を持つデータサイエンティストも多いという。
https://www.tv-asahi.co.jp/scramble/

楽天ブックス:人類と病 - 国際政治から見る感染症と健康格差 (中公新書 2590)

詫摩佳代(著)
【目次】
序章 感染症との闘い――ペストとコレラ 001
2 コレラと公衆衛生 009
  アジアから世界的流行へ
  公衆衛生設備の発展
  国際保健会議の開催
  スエズ運河の開通
  国際衛生協定の締結
  クリミア戦争での蔓延
  赤十字社の設立
  感染症との闘いが遺したもの 
https://books.rakuten.co.jp/rb/16258112/

『人類と病』

詫摩佳代/著 中公新書 2020年発行

感染症との闘い――ペストとコレラ より

アジアから世界的流行へ

ペストと並んで、ヨーロッパ市民社会に大きな影響を与えてきたもう1つの感染症コレラである。コレラとはコレラ菌によって引き起こされ、激しい嘔吐と下痢を伴って著しい脱水症状に至る感染症である。コレラ菌は通常は沿岸の水生の環境に存在し、汚染された水や海産物などの食べ物を人間が摂取することで感染する。コレラ菌接触後1~3日後に軽度から重度の下痢と嘔吐が始まる。重症の場合は、下痢によって1時間に約1リットル以上の水分と塩分が失われることもあり、脱水を治療せず放置すると、水分と塩分の喪失によって、腎不全やショック状態、昏睡が生じ、死に至ることもある。19世紀における致死率は50~70%にも達した。かつてコレラは世界各地で発生していたが、公衆衛生設備の進展にともない、現在は熱帯や亜熱帯の発展途上国にほぼ限られている。感染した場合は症状に応じて経口輸液の投与や抗生物質の投与を行えば、快復することができる。
コレラはもともと、インドとバングラデシュの間にまたがるベンガルのデルタ地域に古くから存在した地域限定的な風土病であったが、1817~19年にインドのかなり広範な地域で流行して以降、インドから中国、日本、東南アジアへ感染拡大した。1830年代にはアジアからヨーロッパ全域を覆い、19世紀半ばには南北アメリカやアフリカ南部にまで達し、バパンデミックとなった。科学史学者の小川眞理子によれば、当時のヨーロッパは産業革命を経て、人口の急増と都市への集中、さらに都市化の拡大が起きており、コレラが流行するには絶好の温床であったという。たとえばロンドンの人口は、19世紀初頭は100万人ほどだったのに、1880年代には500万人に達する勢いで増えていった。イギリスでは1831年の最初の流行に始まり、1848年、1854年、1866年と4回の流行が見られた。

クリミア戦争での蔓延

コレラは一般に市民社会のみならず、戦場でも大きな脅威であった。イギリスの歴史学者オーランドー・ファイジズによる『クリミア戦争』に依拠して、クリミア戦争中の様子を見ていきたい。
1828~29年のロシアとオスマン帝国露土戦争でも多数のロシア兵がコレラチフスに感染したことに続き、1853年に始まるクリミア戦争でもコレラが猛威を振るった。クリミア戦争は、オスマン帝国ロシア帝国の軍事衝突として始まった第一次世界大戦前の最大の戦争である。1854年にイギリスとフランスがトルコに味方して参戦し、オーストリアが反ロシア連合に参加する動きを見せると、主戦場はドナウ川流域からクリミア半島へと移った。
クリミア戦争は、第一次世界大戦前における史上最多の死者を出したが、その原因としては、戦死者よりも、コレラをはじめとする感染症による死者が多かったためである。1854年7月、軍の兵士のなかから初めてコレラによる死者が出て以降、死者の数は驚異的な速度で増えていった。ドナウ・デルタの湖沼市地域は病原菌の巣窟(そうくつ)であり、環境の悪さが土台となって、1854年夏には、ヨーロッパ南東部の全域がコレラに冒されたという。
当時はまだコレラの感染メカニズムが科学的に解明されておらず、戦場でのコレラの感染拡大は、周辺の湖沼から発する瘴気(しょうき)、過度の飲酒、腐った果物などによるものと考えられた。しかし、たとえそうだとしても、平時のロンドンやパリと異なり、戦場でミアスマを吸い込まないための仕組み作りは難しかった。トイレの汚水は溢れるに任され、死体は炎天下で放置された。病人は兵舎に運ばれたが兵舎はネズミの巣であったという。
1854年末、英紙『タイムズ』に戦場特派員の報告として、クリミア戦線での英兵の現状が掲載されると、タイムズ社には読者からの寄付金や投書が殺到し、タイムズ社はこの寄付金をもとに傷病兵救済のための基金を設置した。さらにクリミア派遣軍に看護婦を同行していない現状も明らかになり、従軍志願を申し出る女性たちが出てきた。フローレンス・ナイチンゲールもその一人であった。ナイチンゲールは当時の陸軍大臣であったシドニー。ハーバートと家族ぐるみの付き合いがあったため、ハーバートの妻に手紙を書き、看護婦団を結成してトルコに渡る計画を提案した。
ナイチンゲールは38人の看護婦を連れてコンスタンチノーブル近郊のスクタリに赴き、スクタリ中央病院の惨状を改善した。他方、ナイチンゲールの努力にもかかわらず、1855年1月にはコレラによる死者の数が急増していった。スクタリの中央病院で下水が漏れて飲料水に混入している事実が見落とされていたためであった。

赤十字社の設立

とはいっても、そもそも有志で危険な場所へ赴き、病院の惨状を改善した功績は、後世の評価の通りである。このほかにも、有志の個人や団体の活動が戦場での傷病兵の手当てや衛生状況の改善に大きな役割を果たした。ファイジズのよれば、クリミア戦争の参戦国ロシアでも、皇帝の義理の妹にあたるエレナ・パブロヴナ大公妃が「聖十字架看護婦会」を設立、基金には貴族、商人、役人、司祭など各界から寄付が殺到し、看護婦が戦場に派遣されたという。