じじぃの「科学・芸術_164_台湾・鄭成功の時代」

LEGENDARY HEROES vol.02remake 鄭成功MV 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=CZtzSn04Rc8
鄭成功の生涯 (hirado-net.com HPより)

B型肝炎ウイルスの世界分布 (tokumen.co.jp HPより)

鄭成功記念館 長崎県平戸市
鄭成功の足跡と鄭成功が結ぶ友好国
1624年平戸で生まれると、7歳にして父芝龍の故郷中福建省南安に渡り、名を森と改め、その後南安県学の学生となり、孔子を拝して儒服を受領します。
1644年には南京の国子監太学に入学し名を大木と改名、後に明の王 隆武帝より国姓である「朱」姓と、「成功」の名をいただきます。その後、清の台頭により明王が危機に瀕すると、「抗清復明」を誓い、本拠地を厦門、金門に置きました。しかし、南京での戦いに敗北すると、徐々に清の攻勢は勢いを増し、鄭成功軍は台湾に本拠地を移し時運の挽回を図りました。
http://www.hirado-net.com/teiseikou/about.php
『台湾を知るための60章』 赤松美和子,若松大祐/著 赤石書店 2016年発行
オランダ時代・明鄭時代・清代 (一部抜粋しています)
1642年にオランダはスペインを駆逐し、台湾を植民地として統治する。ゼーランジャ城が建つ半島の対岸には漢人移住地があり、1656年にはここにプロビンシャ城を建造した。オランダは、オランダ東インド会社を通じて、統治機構(住民に対して、軍事力を背景に徴税し、政策を強要するシステム)というものを台湾に持ち込んだ。オランダは台湾にとっての最初の外来政権となったのである。また、東インド会社が原住民の1つであるシラヤ人へキリスト教伝道を奨励したため、シラヤ後のローマ字による聖書が出来上がった。シラヤ人と漢人との土地契約文書(新港文書)でも、このローマ字が使用されていた。これは台湾における言語をローマ字化した最初の取り組みだといえる。
続いて注目するのは明鄭時代(17世紀後半)である。この時代には外来政権が自らの勢力を増強させるために台湾の土地を開墾し始めたのであった。そもそも明鄭時代というのは学術用語であり、明の遺臣である鄭氏政権の時代を意味する。鄭氏とは、日本では上方の人形浄瑠璃国性爺合戦」(近松門左衛門)の主人公である国性爺(こくせんや)、つまり鄭成功(ていせいこう)を中心とする一族のことである。鄭成功の父は東シナ海を縦横する鄭芝龍(ていしりゅう)であり、母は肥前国平戸の田川マツであった。
オランダが台湾を植民地経営している時、中国では王朝交代が起こっていた。1644年に明朝が都(北京)を追われ、清朝が中華世界に君臨すると、明朝は江南に拠点を作って抵抗を続ける。そうした「反清復明」の拠点の1つを鄭成功が担った。彼は1661年に台湾へ渡ってゼーランジャ城に拠るオランダを翌1662年に駆逐し、プロビンシャ城を承天府と改称して台湾統治の拠点に位置づけた。直後、鄭成功は死亡し、子の鄭経(ていけい)が跡を継ぐも、孫である鄭克爽(ていこくそう)の時代の1683年には清朝に帰順し、鄭氏政権は23年で幕を閉じる。鄭氏政権の性格は外来政権であり、もともとオランダやスペインのような海洋国家であった。しかし、反清復明の勢力を立て直すために台湾に拠り続けた結果、台湾という島の歴史から見た場合、鄭氏政権は大陸国家として台湾の土地を開発した最初の統治機構となった。これは鄭成功を祀った延平郡王祠が開山王廟とも呼ばれることから、理解できよう。
鄭氏政権は反清復明という目標を掲げて台湾を開墾するために、漢人移民を必要とした。そのため、オランダ時代末期に3.5万から6万人の人口だった漢人移民は、明鄭時代になると12万から20万に増加し、原住民の全人口と同じか、それを上回るほどになった。
最後に注目するのは清代(18〜19世紀)である。この時代は台湾が1つのまとまりとして中華帝国の一部になった。また、清朝による台湾統治は長く消極的な統治が展開されていたものの、19世紀後半になると積極的な統治に方針が変わる。