台湾・開南大学よりワクチン支援へ感謝のビデオメッセージが届きました
2021年6月11日 弘前大学国際連携本部
【開南大学、現地学生からのメッセージ一部紹介】
・日本から台湾へ124万回分のワクチンをご提供いただき本当にありがとうございます。そして沢山温かいお言葉もいただき、本当にありがとうございます。この恩は一生忘れません!
https://www.kokusai.hirosaki-u.ac.jp/2021/06/topics8-3/
『台湾を知るための72章【第2版】』
赤松美和子、若松大祐/編著 赤石書店 2022年発行
Ⅳ 文化と芸術 より
第53章 中華文化・本土文化・日本文化――変わり続けた「正統」とその語り
「中華文化」、「本土文化」、「日本文化」と聞いて読者は何を思い浮かべるだろうか? 「本土文化」は聞き慣れないだろうが、この「本土」は中国語で「現地の、在地の」という意味なので(中国大陸を指す言葉ではない)、「本土文化=台湾文化」と言い換えることもできる。
清朝、日本、中華民国の統治を経て来た歴史的経緯を考えると、台湾には「中華文化」、「本土文化」、そして「日本文化」が存在するといえる。その際、読者が想像するのは、食文化、服飾文化、民俗文化、伝統芸術文化、はたまた大衆文化だろうか。
しかし、文化は人々の営み全ての総称であり、その範疇は極めて広いので、それを説明する場合にはまず範囲を限定して語る必要がある。文化人類学の立場からは様々な説明が可能だが、文化の概念は時代によっても解釈が大きく変化するものであるから、ここでは台湾現代史の観点から、各時代で「中華文化」、「本土文化」、「日本文化」がどのような扱いを受け、また語られてきたのかを1945年から時系列で見てみたい。
清朝の一部であった台湾が、1895年から50年間続いた日本植民地統治を経て、中華民国に「光復」(「祖国」復帰)したのが1945年である。50年の日本統治を経た台湾は、1937年からの皇民化運動もあいまって、日本文化が相当程度浸透していた。しかし日本統治時代の「日本文化」>「本土文化≧中華文化」の図式は、「光復」によって、「中華文化>本土文化」>「日本文化」の図式へと転換を余儀なくされることとなる。
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「光復」当初の「本土文化」は、本来台湾を覆っていた原住民文化ではなく、主として福建や広東からの移民によって取って代わった漢民族文化を指し、そこでは祖国(中国)との密接なつながりを証明する役割が求められた。しかし、中国からの外省人の移入は、台湾社会を日本統治時代の近代的「法治文化」から封建的伝統中国の「人治文化」へと転換させ、日本時代にはほとんど見られなかった汚職、不正、犯罪の蔓延をもたらした。見かねた台湾人は、「祖国化」が「台湾文化を30年も退化させ」ると、新聞に投書するほどであった。
やがて、1947年に二・二八事件が起こり、1949年に国共内戦で中華民国(国民党政府)が台湾に移転し、百数十万ともいわれる外省人が台湾に流れ込む。国民党政府は日本語の使用を禁止し、日本文化は隠蔽すべき文化となった。そのため、日本時代に教育を受けた台湾人にとって、日本文化は外省人と自身を区別する、いわば「自らのアイデンティティのより所」として機能するようになったことも指摘されている。
また、ここで重要なのは、中国が分断国家となったため、1949年をもって台湾(中華民国)と中国大陸(中華人民共和国)の間の往来が1987年まで断絶したことにある。この長期の断絶状態の下、台湾を全世界で唯一「中華文化が保存される地」とする運動が開始されることとなる。それが1966年からの「中華文化復興運動」である。この運動は、中国で毛沢東が伝統中国文化を否定・破壊し、共産主義文化を打ち立てるとした「文化大革命」を発動したことに反発した蒋介石が台湾で開始したものであった。そこで意味される「中華文化」とは、孔子を中心とする道徳的教義である儒家思想(=儒教)を民族固有の文化とする伝統的な精神文化であった。
「光復」当初、台湾は日本の植民地によって日本文化が優勢となり、中華文化が失われつつあると形容される向きもあった。しかし、その台湾が政治状況の変化によって「光復」20年後には一転して中華文化の聖地と位置づけられたのである。
とはいえ、台湾における1987年の戒厳令解除後の自由化と民主化は、それまでの政治的イデオロギーを脱構築していくこととなる。台湾人として初の中華民族総統となった李登輝(1988~2000)、台湾独立を党是に掲げていた民進党から総統となった陳水扁(2000~2008)の時代を経て、日本統治を経験した台湾人(およびその子孫)が政治の表舞台で活躍していったことで、人々は次第に中国とは異なる台湾独自のアイデンティティを求めるようになっていった。
すると、中国との文化的一体性を示すために国民党政権から重要視された「中華文化」よりも、文化面から台湾の独自性を主張するために「本土文化=台湾文化」が重要性が強調されるようになっていったのである。
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目下の台湾では、「中華文化」や「本土文化」に加え、食文化や大衆文化といった「日本文化」も台湾人の日常生活には欠かせない存在となっている。台湾で見受けられる「日本文化」に対する現地の人の眼差しや評価には、極めて好意的なものがある。
だが、日本側の人間が意識すべきは、現地で目にする歴史的建造的などのような「台湾に残る日本文化」は、台湾人にとって自身の主体的な歴史認識の構築において重要なのであり、日本人に癒しを提供するための対象ではないという点であろう。
「われわれ台湾」の歴史的・文化的文脈が中国と異なることが語られる際に日本が持ち出されても、それは日本統治を無条件に肯定するものではない。日本統治時代という色が、移民により異質な人と記憶が混じり合い、塗り重ねられてきた”台湾近代史”という混色の上にさらに重ね塗られ、台湾の歴史が独自の色と輝きを発するようになったとしても、それが何色に見えるかという解釈権は、あくまで台湾人の側にあるのである。