じじぃの「科学・芸術_972_中国・鄭成功の台湾支配」

鄭成功猝逝 鄭經濟大統 從歴史走來 第三集 戰.和 20190331 (1/4)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=IshO0YPVmBg

日本台湾の英雄「鄭成功生誕の地」平戸市

鄭成功とは?
中国人海商で平戸を根拠地として活動した鄭芝龍(ていしりゅう)を父に、平戸川内の田川マツを母に1624年7月14日平戸で生まれました。幼名を福松、中国名を鄭森と言います。
鄭成功は、わずか7歳で単身海を渡り、21歳の時、明の隆武帝より明王朝の国姓「朱」を賜ったことから、人々は彼を「国姓爺」と呼びました。
https://www.hirado-net.com/teiseikou/about.php

『中国の歴史を知るための60章』

並木頼壽、杉山文彦/編著 赤石書店 2011年発行

鄭成功の台湾支配 鄭氏海上帝国の野望と挫折 より

鄭成功(ていせいこう)の父 鄭芝龍(ていしりゅう)は、1600年、福建省泉州近くの南安県石井に生まれた。17世紀の東アジア海域は政治的環境が激変したが、その変化に適応したのは泉州周辺の出身者である安平商人だった。鄭芝龍はこの商人集団のなかでしだいに台頭する。安平商人の商業ネットワークは南京、臨清、蘇州、杭州を結び、さらに長崎や平戸に拠点を置き明と日本との交易にかかわる者も出てきた。鄭芝龍は日本の平戸を拠点として東アジア・東南アジアと交易していた李旦(りたん)の船に貨物を管理するために乗った。1621年に鄭芝龍が日本に到着すると、李旦はその能力をかい、義理の親子関係を結んだ。
李旦は朱印船(しゅいんせん)をタイオワン(現在の台南市安平)、トンキン、交趾シナ、ルソンなどに送り、その通商網は中国船との出会い貿易がおこなわれる東アジアに広がっていた。このころ東アジアとの交易に参入したオランダ人の中国本土との交易の拠点として澎湖島に要塞を築いた。これに対し福建の官憲はこれを取り壊すようにたびたび要求し、軍隊を派遣して来た。結局、李旦の斡旋でオランダ人はタイオワンにゼーランディア城とプロヴィンシア城を建設し中国本土との中継貿易拠点とした。李旦は福建官憲との交渉費用としてオランダ人から多額の金を預かっていたがほとんど交渉せずこれを着服し、中国本土とタイオワンのあいだを航行するジャンクを襲撃していた。
鄭成功は1624年平戸に生まれた。母マツは田川七左衛門の娘で、幼名を福松(中国名は鄭森)といった。鄭芝龍は福松の誕生後、タイオワンにしばらく滞在し、オランドのタイオワン商館の通訳を務めた。1825年8月に李旦が死ぬと、鄭芝龍は1625年末ころに海賊に参加するためタイオワンを離れた。海賊仲間は離合集散を繰り返していたが、鄭芝龍は日本やオランダとの関係を重視し、通称網の拡大に役立てた。1627年の春から鄭芝龍は中国沿岸の略奪をじはじめると、明朝はオランダ人に厦門(アモイ)の警備を要請した。鄭芝龍の武装船団は火船攻撃(火船とは、敵船を焼き払うため、燃料や爆発物を満載、点火して敵船の風上に流した船のこと)でオランダの武装船団を圧倒した。鄭芝龍は1000隻の船で中国沿岸を完全に支配し、厦門を占領した。
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1644年、李自成の反乱で明王朝が滅亡すると、明の安平鎮将となっていた鄭芝龍は福州に明の皇室の唐王を擁立し、清に抵抗する姿勢を示した。1646年福州が陥落すると鄭芝龍は真に帰順した。鄭成功は父と訣別し、慎重への抵抗を継続する。鄭成功も唐王から明皇室と同じ「朱」姓を授けられた。厦門の西となりの鼓浪嶼を根拠にして軍隊を訓練し艦船を建造して反清の軍事力の基礎を固めた。このころ鄭成功は永暦帝(えいれきてい)を奉じていたが、厦門に拠っていた従兄弟の鄭聨(ていれん)を殺害、厦門を確保し、叔父鄭鴻逵が拠っていた金門も手中に収め、ここに鄭氏海上武装集団の最高指導者となった。鄭成功厦門・金門を本拠として沿海各地に軍事・経済上の拠点を拡大して清朝支配地域を攻撃奪還する計画だった。福建・広東・浙江の沿海地域を攻略して税を課し兵站基地とし、他方、父芝龍が築きあげた東アジア・東南アジアとの交易ネットワークによる収益がその経済的基盤となった。1653年、鄭成功は南明政権の永暦帝によって延平郡王に封じられた。
清朝は鄭芝龍を通じて福建沿海の統治権を認めるなどの和議の条件を提案してきたが鄭成功は拒否した。清は1656年海禁令を強化し鄭成功の活動を封じ込めようとした。
鄭成功は1658年5月厦門島から10万5000の精鋭を大小300余の艦船に分乗させ南京攻略のために出撃した。
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新たに台湾の支配者となった鄭氏政権はゼーランディア城を安平鎮、プロヴィンシア城を承天府、台湾を東部として軍事に重点を置く六部に殉ずる六官という中央行政機構を設置した。実質的には鄭氏一族が最高権力者の地位を占め、武官・文官がこれを支えた。反清のため準戦時体制として屯田性をしき、台湾南部・中部の開発を進めた。鄭氏政権はオランダ時代の王田を官田として佃戸から小作料を取り立て、私有地から租税を徴収した。さらに所有する大型船団と築きあげた海商ネットワークによって日本や東南アジア諸国と交易しその収入が鄭氏政権を支えた。オランダの支配に反感を抱いて台湾先住民は鄭成功がみずから先住民村落を尋ねるとこれを歓迎したが、オランダ統治時代の村落請負税は踏襲された。海域支配を基礎に清朝への抵抗を継続しようと考えた鄭成功はその根拠地としてルソンも征服しようとしたが、1662年6月23日に急逝した。
鄭成功の息子、鄭経(ていけい)も父の意志をついで反清闘争を継承したが、1663年4月から翌年4月にかけて清軍がオランダ東インド会社艦隊の協力によって厦門や金門などを占領し、鄭氏の大陸沿海の主要な拠点が失われた。