じじぃの「科学・芸術_656_ポルトガル最古の地図・カンティーノ図」

Cantino planisphere 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=FocOFe5Xtvc
Cantino planisphere(1502)

インドへの海道 マリンディ 〜 カリカット

Vasco da Gama Explorers for Kids
https://www.ducksters.com/biography/explorers/vasco_da_gama.php
『人類はどこへ行くのか (興亡の世界史)』 杉山正明、大塚柳太郎、福井憲彦/著 講談社 2009年発行
人間にとって海とはなんであったか より
明代0中国は、初期においては、海陸にまたがるモンゴル帝国の継承をめざして、1405年から鄭和の指揮のもとで南海遠征を開始する。それは、大明帝国が成立したことを告知し、中国への朝貢をうながすための示威航海であった。明代中国は、インド洋海域世界に「われらの海」として参入していったのである。鄭和の南海遠征は、1433年までの28年間に7次にわたって実行された。
その遠征の画期性は、中国艦船が東方からマラバール(インド南部のコンカン沿岸地帯)を越えてインド洋西部海域世界に深く乗りいれた点にある。これは、マラバールまでが中国のジャンク船の活動範域という古代以来のインド洋海域世界の秩序分担を東方から打破する動きであった。すでに「モスレムの海」となりつつあったインド洋の東部と西部の両海域世界を、単一の海域世界に中国から再編する試みであった。鄭和自身がユンナン(雲南)出身のモスレムであり、同海域世界のイスラーム・ネットワークに参入するのは容易なことであったろう。
1413〜15年の第4次遠征では、彼らは東アフリカに達している。その最遠到達地は、現在のケニア北部海岸のマリンディ(麻林)であった。このときマリンディは、中国に朝貢使節団を派遣する。彼らは、キリンをともなっていた。「キリン」は現地名であるが、発音が「麒麟(きりん)」という中国での架空の瑞獣(ずいじゅう)とおなじということで大歓迎された・さらに鄭和の艦隊は、1431〜33年の第7次つまり最終遠征の際にもマリンディを訪れる。
これに対して、逆に西方からインド洋海域世界さらには「大海域世界」東端にまで進出しようとしたのが、ポルトガルであった。すでに1341年にカナリア諸島の探索を開始して以来、ポルトガル「インドへの海道」を模索していた。鄭和の最遠到達地マリンディは、ポルトガルにとって記念すべき場所であった。そこは、ダ・ガマが第1回航海で到達したアフリカ大陸の最遠地点であった。彼らは、マリンディ王にインド人の水先案内人をあっせんしてもらって、カリカットをめざしてインド洋横断航海に出発する。カリカットは、鄭和の第1〜第3次遠征での到達目標であった。ダ・ガマも、鄭和を追うかのように、そこを「インドへの海道」の最終目的地とした。インド洋海域世界をめぐる中国とポルトガルの「挑戦と応答」である。
ダ・ガマがマリンディを出発したのは、鄭和艦隊の最後の訪問から66年後のことであった。このときには、マリンディでは鄭和の大艦隊の記憶も残っていたであろう。彼らは、ダ・ガマたちの船があまりにも小さいことに驚いたかもしれない。しかし明代中国は、永楽帝の死後、「南海遠征」を中止する。以後、中国の大艦隊がインド洋海域世界に派遣されことはなかった。
ダ・ガマの成果をもとに作成されたのが、1502年の「カンティーノ図」であった。同図は、各地の地名とともに商業情報をこまかく記入している。そのなかで、とりわけ大きくあつかわれているのがカリカットとマラッカである。