じじぃの「科学・芸術_1007_台湾・日本との関係・映画『KANO』」

台湾で、一番人気の映画「KANO」


台湾映画「KANO」を見ました。感動しました。

2014/03/29 フォートラベル
この映画は、日本統治時代に実在した嘉義農林学校(略してKANO)が台湾代表として甲子園で行われる全国中等学校野球大会に出場するという話です。
ほぼ全編、日本語です。それは当時台湾は日本語教育が行われており、台湾原住民、漢族、日本人の三者の共通言語は日本語だったからです。
また、烏山頭ダムの建設を指揮した、台湾で有名な日本人の八田與一も登場します。
キャストは日本から永瀬正敏大沢たかお、坂井真紀が、主演とも言える呉明捷投手役はなんと現役の大学野球選手です。
日本人の知らない歴史がここにありました。日本人の知るべき歴史がここにありました。
https://4travel.jp/travelogue/10874221

『台湾を知るための72章【第2版】』

赤松美和子、若松大祐/編著 赤石書店 2022年発行

Ⅴ 対外関係 より

第62章 日本との関係――切っても切れない重要な隣国

台湾は親日と言われる。日本の支配を同様に経験した韓国との比較で話題に上ることがある。日本の統治が優れていた、とか、戦後の国民党支配が苛烈であったから、といった説明がよくなされるが、各人様々である感情を理屈で論じるのは難しい。
戦後の日台関係は、まずは日本と、内戦に敗れて台湾に撤退した蒋介石ら国民党による中華民国政府との関係だった。国民党からみれば日本は大陸で干戈(かんか)を交えた敵国だが、戦後の冷戦が東アジアに及ぶ中で、米国率いる「自由陣営」側で手を携えるべき相手となる。1951年9月のサンフランシスコ講和会議は中華民国中華人民共和国のいずれが中国の代表かが決着せず双方欠席した。
そこで翌1952年4月に台北日華平和条約を締結し、区切りをつけた。当時の日本にとって、これは中国を代表する政権との平和条約という意味づけになる。条約締結で、大陸での戦争被害をめぐる賠償は放棄された。それは、台湾統治の後始末ではない。台湾住民の持つ債権は条約で「別途とりきめる」とされたが後述する断交とともに条約が消滅してしまった。その後、台湾の元日本軍人らが、戦地で預けた軍事郵便貯金や未払い給与などの支払いを求める運動を起こし、95年に日本政府が当時の額面の120倍で支払うことを決めた。台湾側には不満が残った。
戦後の台湾は軍事、経済の両面の援助で米国の強い影響下にあった。1965年に経済援助を打ち切った米国の肩代わりに日本が円借款を供与し、関係緊密化のきっかけとなった。民間では59年に台湾の外資銀行第1号として日本勧業銀行(現みずほ銀行)が進出。松下電器産業(現パナソニック)は62年に音響機器工場の操業を始めた。
1972年の日中国交正常化に伴い日本は台湾と断交するが、直後に実務関係を維持することで両政府が合意し、台湾側が「亜東関係協会」(現台湾日本関係協会)、日本側が「交流協会」(現日本台湾交流協会)を設立した。それぞれ東京、台北で大使館機能を担っている。
日本では中国の陰で台湾の存在感はやや薄くなったが、再び注目されるようになったのは、1980年代後半以降に進んだ民主化の中で総統を務めた李登輝の個人的魅力によるところが大きい。李政権は対日観にも転機をつくった。それまでは外交上の対日関係重視とは裏腹に日本文化の受け入れが制限され、街で日本語を話すことがはばかられ、学校では中国大陸の歴史だけが自国史として教えられた。これに対し李政権の97年、中学で「台湾を知る」という新設科で台湾史を教えることになり、日本統治が台湾の近代化に寄与したとの評価も加えられた。

今日では、台湾は固有の文化のうえに、大陸生まれの中華民国がもたらしたものと、日本統治時代の遺産とが融合したと解釈されている。日本統治時代の再認識に貢献しているのは、例えば魏徳聖の手がける映画だろう。近年は戦前の甲子園で準優勝した嘉義農林(現嘉義大学)の野球部を取り上げた「KANO」が反響を呼んだ。日本人、漢人、原住民の混成チームが活躍する実話がもとになっており、セリフの大半が日本語だった。

台湾にはもともと日本語を国語とした世代がいて、また国民党にも留学者は少なくなかった。戦後は英米圏への留学が多く、最近の政権幹部や立法委員に日本語を操れる者は少ない。一方、若い世代は日本のドラマやアニメに親しみ、日本語学習も盛んである。概して台湾社会で日本への関心は高く、メディアでも日本の出来事は大きく取り上げられる。日本でも最近は台湾が人気旅行先となり、中国語研修で台湾を選ぶ学生が増えた。
良好な日台関係にあって、時折悪感情が噴出する源として尖閣諸島問題があった。日本が支配する尖閣諸島は、中国のもならず台湾も領有権を主張している。
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日本と台湾には地震と水害が多発する共通点があり、双方の関係を緊密にする働きをしている。今も台湾社会で記憶に刻まれているのは1999年9月21日に台湾中部で起きた大地震の際の日本の救援だ。日本の国際緊急援助隊は同日のうちに現地入りし、夜通しで作業にあたった。2009年の大規模台風災害時も日本隊が出動した。11年3月11日に発生した東日本大震災で台風から巨額の義援金が贈られたのは、「恩返し」の機運が台湾社会で共有されたからである。その後、地震や災害が起こるたび、双方の首脳レベルでも見舞いメッセージと返礼の交換が定着した。
2020年以降、中国から広がった新型コロナウイルスは、日台関係にも新たな局面をもたらした。機敏な初期対応で封じ込めに成功した台湾に対し、日本では同年春以降、政府の対応が後手に回って感染が拡大し、日本を見る台湾の視線は冷ややかになった面もある。ところが21年5月に台湾で水際対策の漏れから感染が急拡大し、深刻なワクチン不足が表面化、蔡政権に日本政府が手を差し伸べ、アストラゼネカのワクチンを送ったところ、台湾側では広く市民から感謝の声が上がった。
日本政府は、台湾を自国領土とする中国の主張を理解・尊重する立場にあって台湾との交流には制約がある。その中で自然災害や感染症への対応は大事な協力分野となっている。人道上の配慮であるとして中国からの批判をかわすことが可能だからだ。