じじぃの「科学・芸術_100_台湾・二二八事件」

【驚異の親日の理由】日本人大好き台湾の謎 日台友好 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=YJ88WCgzI1Q
中国と台湾の対立/池上彰の現代史講義 第4回 Ep 1 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=L0Db-zHt2jA

二・二八事件 コトバンク より
1947年2月28日中国,台湾で起った大陸人支配に対する台湾人の反乱事件。
同年2月 27日夜台北市で,大陸人官憲の闇たばこ摘発隊が台湾人老婆を殴打,抗議に集った民衆に発砲して1名を死亡させ,翌 28日憤激して省行政長官兼警備総司令陳儀の公舎に向った台北市民デモ隊が機銃掃射を浴び,死傷者多数を出した。

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『教科書が教えない歴史(3)』 藤岡信勝自由主義史観研究会/編 産経新聞社 1997年発行
台湾で”神さま”になった警察官 より
皆さんは、台湾で”神さま”になった日本人がいることを知っていますか。神さまとしての名前は「義愛公」ですが、森川清二郎という警察官だった人です。どうして森川は神さまになったのでしょうか。
森川は日清戦争で日本の統治下になった直後の1897年(明治30年)、37歳のときに巡査として台湾に渡りました。そして南部の台南州(今の嘉義県)東石郷副瀬村の派出所に勤務します。
当時の台湾は治安も悪く、警察官の勤務は大変なことでしたが、森川は身を犠牲にして任務に当たりました。あるとき、村人の一人が海にカキを捕りに入り、貝ガラで足を切ってしまいましたが、それを見た森川は海に入り、その人を背負って自宅まで送り届けました。森川自身も海に入ったときケガをしましたが、黙っていました。後にこれを聞いた村人たちは感泣したということです。
また、当時、正規の学校がなかったため派出所の隣に寺小屋を設けました。日本から教科書を取り寄せて、子供たちだけでなく、大人たちにも読み書きを教えました。そのため、村人からは「大人(たいじん)、大人」として慕われていました。
ある年のことです。台湾総督府が村人に漁業税を新たに制定しました。副瀬村は漁業が主な産業でしたが、もともと貧しく、厳しい税金が課せられると生活できなくなります。そこで、村人は森川に対しその税金を軽減してくれるよう嘆願してきました。実は当時、台湾の警察官の仕事として税金を集めることもあったからです。
森川は「生活がきわめて苦しい実状を見ると何とも忍びない。その意を上司に伝えてみよう」と約束しました。そして、台南州東石支庁を訪ね、税を減免するよう申し入れました。ところが、当時の支庁長は、森川が村人を扇動していると誤解しました。実態調査もしないで森川の要請を門前払いにしたうえ、森川を懲戒免職にしてしまったのです。
森川にとってよほどこれは無念だったのでしょう。銃で自殺します。1902年(明治35年)4月7日のことで、森川42歳のときでした。村人たちが嘆き悲しんだことは言うまでもありません。
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戦後、中華民国政府が日本に代わって台湾を統治するようになり、政府から義愛公のご神体を抹殺するか、当局に提出するよう指示がありました。しかし、村人たちはこれに応じないだけでなく、日本人警察官とわからないようご神体に中国式の帽子や衣を着せて中国風の神さまに見せました。今でも「日本の神さま」として信仰を集めているということです。

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『月刊 Hanada』 2017年3月号
台湾を救った「大和魂」 汝、ふたつの故国に殉ず―台湾で「英雄」となったある日本人の物語― 門田隆将×金美齢 より
  門田さんがこのたび出版された『汝、ふたつの故国に殉ず―台湾で「英雄」となったある日本人の物語―』(KADOKAWA)、読みながら涙が止まらなくて、今もこの帯を見るだけで泣けてきます。湯徳章、日本名では坂井徳章という一人の人物の生涯を追いながら、日本統治時代から国民党時代に代わって、台湾が中国人の手によって地獄と化していく様が描かれています、それから70年、苦難の歴史を乗り越えて、昨年、蔡英文さんが総統の座に座った――その歳月は私の人生とも重なっていて、とても読みごたえがありました。
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門田 二二八事件とは何だったのか。これは動乱鎮圧に名を借りた「エリート層の一掃」だったのです。
  まさにそうです。私はずっとそう指摘してきました。台湾が二度と国民党に歯向かわないよう、指導的立場になりうる知識層を、この機に、乗じて一掃しようとしたのです。例えば、私の妹の同級生のお父さんは、台湾人で初めてコロンビア大学に留学して博士号を取ったという人物で、新聞社の社長をしていました。この人は戒厳令下で当局から呼び出されると、「潔白を証明してくる」といって出かけていったまま、二度と戻ってこなかった。
門田 長く二二八事件を研究している李筱峰・国立台北教育大学台湾文化研究所専任教授も、「全島各地の数多くのエリートが、3月9日からほぼ1ヵ月の間に逮捕、殺害されている。彼らの多くは暴動に関わっていないにもかかわらず、計画的に”謀殺”されたと言っています。二二八事件の犠牲者は2万人から3万人と言われていますが、その多くが裁判官や弁護士をはじめ、エリートたちだった。特に日本統治下で高等教育を受けた人たちが”狙い撃ち”されたんです。中国人の残虐さは我々の想像をはるかに越えるものです。ある裁判官の場合は、うち捨てられていた遺体を家族がようやく見つけたものの、拷問で睾丸が潰されていたそうです。徳章さんも、筆舌に尽くしがたい拷問を受けた。学生たちの名前を吐かないからと、あばら骨も腕も折られるほどの理不尽な暴力を受けた。それでも口を割らず、ついに処刑されることになったのです。