じじぃの「歴史・思想_593_福島香織・台湾に何が・二・二八事件・犬が去り豚が来た」

日本の統治下にあった台湾


犬が去り豚が来た。日本撤退後の台湾を襲う大陸からの招かざる客

2016.10.31 まぐまぐニュース!
かつて日本の統治下にあった台湾。その後、日本に代わりやって来たのが中華民国軍、いわゆる「祖国軍」です。
しかし、祖国軍の上陸後の台湾は治安が悪化し、犯罪も多発、「犬が去って豚が来た」という言葉まで生まれたとのこと。無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、「日本の統治が台湾にもたらしたもの」について、著者の伊勢雅臣さんが李登輝元台湾総裁の言を引きつつ紹介しています。
https://www.mag2.com/p/news/225825

『台湾に何が起きているのか』

福島香織/著 PHP新書 2022年発行

第4章 台湾と中華民国の異なる歴史 より

「犬が去り、豚が来た」

この引き揚げる日本人と、残る台湾人、新たにやってきた支配者への感情の悲喜こもごも、その後に起きる「二・二八事件」の悲劇については、侯孝賢監督の映画『非情城市』(1989年)をぜひ、見てほしい。この映画は、それまで台湾でタブーとされていた二・二八事件を正面から取り上げ、台湾人と日本人、そして外省人との関係を繊細に描いたことで、世界的ヒットとなった。この映画のロケ地となった九フンは、映画の影響で台湾屈指の観光地となった。
1945年10月17日、戦勝国として1万2000人の中華民国軍と官僚200人が米軍戦艦から台湾を接収するために上陸した。台湾人の多くが漢人であり、中華民国は「祖国」である。日本軍を打ち破ったという祖国の統治者を、台湾人は爆竹を鳴らし、銅鑼(どら)・鉦(かね)を打って盛大に迎えた……はずだった。
だが上陸してきた国民党軍兵士たちは、薄汚れた軍服、敗れた綿入れを着込み、軍靴ではなく
草履(ぞうり)や裸足でだらしなく、鶏のかごをつけた天秤を担いでいたり、なべ窯を背負うものもいて、だらだらと私語をしながら歩き、物乞いの集団のような様相だった。日本の皇軍のような規律正しい威風堂々たる軍隊を想像していた台湾人は、祖国歓迎のムードから、一気に覚めて失望が広がった。
しかも、台湾にやってきた中華民国人は自ら戦勝国人という驕(おご)りから、台湾人に対し横暴を極め、略奪、強姦などほしいままにした。
その無秩序ぶりは、米国駐台陸軍戦略情報チームが1945年10月に出したリポートに詳しい。当時の台湾行政長官の陳儀は接収の重責を担っているにもかかわらず、民情に暗く、施政は極めて偏向し、台湾人を軽蔑した。また官史の風紀は腐敗し、経済は悪化し、物価は暴騰し、失業は深刻となった。
1945年4月に米軍情報当局が、当時の町の声を収集した際、ある車夫が「日本政府は1匹の犬みたいなものであっり、吠えるし噛むが、秩序を保つことはできた。中国政府は1匹の豚のようなもので、寝て食うだけで何の役にも立たない」と発言したことが記録されている。
このころから、「犬が去り、豚が来た」という表現で台湾人は、日本統治時代のほうが中華民国統治よりましだという認識をもっていたことが、当時の幾多の記録からわかる。

外省人」よる「本省人」への弾圧――二・二八事件

その中華民国、国民党軍への憎悪は1947年2月28日、二・二八事件という形で爆発するのだった。この事件はその後、「外省人」による「本省人」への弾圧の象徴的事件として記憶され、本省人=台湾人のアイデンティティ形成につながる。
二・二八事件の直接のきっかけは1947年2月27日、台北市の路上でヤミ煙草を販売していた寡婦、林江邁を中華民国の官憲が摘発した際、土下座をして許しを懇願した女性を銃剣で柄で殴打し、商品、売り上げを没収した事件だった。
この事件を目撃した台湾人群衆が官憲を取り囲んだため、怯えた官憲側は民衆に威嚇発砲し、その弾に当たった台湾人通行人1人が死亡した。この事件に、日ごろから中華民国への不満を溜め込んでいた民衆の怒りが爆発し、28日に大規模な抗議デモが台湾省行政長官兼警備総司令の陳儀がいる行政長官公署を取り囲んだ。
軽微の衛兵は屋上から機関銃でデモ隊を掃射し、多くの市民が死傷した。これに台湾人民衆はさらに怒り、政府の施設を襲撃し、外省人の商店を焼き討ちした。
このときデモ隊は、日本統治時代に台湾人が全員歌えるように教えられた「君が代」を合唱し、本省人外省人を区別する手段とした。「君が代」を歌えない者を外省人として排除しつつデモ隊は行進し、ラジオ局を占拠して軍艦マーチを流し、日本語で「台湾人よ、立ち上がれ」と檄(げき)を飛ばした。

台湾が中華民国でなく台湾であり続ける原点

二・二八事件の真実は、1987年の戒厳令が解除されるまでタブー視された。戒厳令解除後はその真相と犠牲者の名誉回復の動きが始まり、1989年に記念碑が建てられ、1995年には李登輝総統が公式謝罪を行い、遺族への補償問題に取り組んだ。
1996年、当時の台北市長の陳水扁(のちの総統)が台北新公園の名称を二・二八平和記念公園に改め、その中に当時、台湾人デモ隊が占拠したラジオ局・台湾放送局の建物を改築した台北二・二八記念館が1997年2月28日の事件50周年目に開館された。さらに陳水扁政権の2006年には旧台湾教育会館(のちの米国文化センター)を二・二八国家記念館に改築することを決定。2011年2月28日に正式に開館された。
台北に行けば、このどちらかの記念館に私は必ず足を運ぶ。歴史にIFはないが、もし初代台湾行政長官が陳儀のような無能で卑劣な人物でなければ、その後の台湾の運命も、ひょっとすると世界の枠組みも、大きく変わっていたかもしれない。

だが、この血腥(ちなまぐさ)く悲惨な歴史を乗り越えてきたからこそ、台湾が自力で成熟した民主主義国家を作り上げてこられた、ともいえる。台湾が中華民族でなく、台湾であり続ける原点となった事件といえる。