じじぃの「おばあちゃん仮説・高齢者の役割・死ぬのは怖くない?ヒトは人のはじまり」

テンプル・グランディン: 世界はあらゆる頭脳を必要としている

動画 TED.com
https://www.ted.com/talks/temple_grandin_the_world_needs_all_kinds_of_minds?language=ja


ハヤカワ文庫 火星の人類学者──脳神経科医と7人の奇妙な患者 auブックパス

サックス,オリヴァー【著】
【作品レビュー】
少々長いなと思うようなところもあったが、まあ結論言いますと、みんな違ってみんないい、十人十色、につきますな。
画家が色盲になってからの過程から、どんな悲劇、驚くようなことがあっても、物事をどう捉えるかによって世界は大きく変わるんだなと、深く再認識。単純なことだけどそれがなかなかできないんだよね。でも少し、変えてみただけで、マイナスで暗い世界が少しずつ明るくなっていく、素晴らしい。自分の短所と言われる部分がきっと武器になるんだろうなと、願いたい。

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『ヒトは人のはじまり』

三谷雅純/著 毎日新聞社 2011年発行

いくつもの人生 より

特別な才能

アスペルガー症候群の人は、先天的に自分以外の<人のこころ>になじめません。そのため、まわりの人がそのことを理解できないと、つらい人生を送ることになります。しかし、この<こころのハンディキャップ>とじょうずにつき合い、生きる上で重要な、職と生きがいと、さらに名声までも手に入れた人がいます。テンプル・グランディンもそのひとりです。
グランディンは、オリヴァー・サックスという脳神経科医が書いた『火星の人類学者』(ハヤカワ文庫NF)に登場する女性の動物行動学者です。ちょっと変わったこの題名は、彼女が自分のことを「火星の人類学者」と呼んだことに由来しています。火星人のこころの調査をしに火星に降り立ってはみたものの、火星人が何を考えているのかわからず、途方に暮れている。アスペルガー症候群の彼女にとって、日常の社会生活は、それほど波乱にみちているのです。
しかしグランディンには、ほかの人にはない特別な才能がありました。それは動物、時に「ウシの感じていること」が、生まれつき「自分のこと」として理解できているという才能です。この才能があったので、彼女はウシにとっての心理的な負担の少ない飼育法を開発できました。彼女は、大学に勤める研究者としてだけでなく、畜産技術の専門家としても評価が高いのです。

高齢者の役割

最近、自分の年代が気になりはじめました。自分ではまだ「中年のはしくれ」ぐらいに思っていたのですが、50代も半ばをすぎたのですから、実際は初老と呼ぶべきかもしれません。
わたしが脳こうそくの発作を起こしたのは2002年のことです。後遺症で体が半分まひしましたが、ふしぎなことに、死ぬのが怖くなくなりました。わたしの年になると、誰でも死ぬのが怖くなるのかと思っていたら、ある時、同年配の友人が「最近、死ぬのが怖くなってきた」と言ったのです。わたしとまるで反対でした。友人にとっては、「遠いものだった死が、現実のものになってきた」ということでしょうか?
サルや類人猿と比べると、ヒトは長生きです。岩波書店の「科学」2004年12月号に、京都大学霊長類研究所の濱田穣さんが「霊長類の寿命」という記事を載せています。濱田さんによると、ニホンザルチンパンジーがコドモを生む期間はヒトとそんなに差にないのに、メスがコドモを生み終わってからの期間はすいぶん差があるのだそうです。ヒトでは30年以上におよびます。大まかには、この「コドモを産む時期が終わった後の時間」が、寿命を決めているのでしょう。
多くの野生動物は、コドモが産めなくなると死んでしまいます。ではなぜ、ヒトにとっては「コドモを産めない個体」、つまり高齢者が必要なのでしょうか?
「孫をかわいがったり、年長者としての経験を伝えたりして、自分の子や孫に恩恵を与えているのだ」という説があります。高齢者が孫をかわいがるなど、当たり前のことでしょう? しかし行動生態学という学問では、こんなふうにして、科学として高齢者の存在意義を探っています。
わたしは、本当に「死」が怖くなくなりました。考え過ぎかと思いましたが、でも事実です。これは障がい者になったことと関係があるのでしょうか?
いつか別の機会にくわしく書こうと思っていますが、障がい者になってみると、生きるとか死ぬとかいったことよりも、職場や日常生活の中のハンディ・キャップが身にしみるのです。高齢者の価値を認めない社会でも同じでしょう。バリアフリーと言いながら、いたずらに社会的なハンディ・キャップを拡大する社会では、何だか、生活していてつらい気がします。そして、その社会ではヒトが長く受け継いできた「高齢者から子や孫の受け取る恩恵」も、なかったことになるのかもしれません。
でも、そのことと「死」が怖くなくなったことに、どんな関係があるのでしょう。やはり考え過ぎでしょうか?

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どうでもいい、じじぃの日記。
最近読んだ、エリカ・エンゲルハウプト著『科学で解き明かす 禁断の世界』に、共食いのことが書かれていた。

なぜ人食いが行われたのか

恐らく、昔の人々はいくつもの理由が重なった結果として、人食いをしていたというのが実際のところだろうと彼は言う。ここ数百年間に行なわれた人肉食は、戦争や精神疾患、宗教信仰など、単なる生存競争を超えた多様な理由がある。

ところが約5万年前、歯が抜け落ち、歩くこともままならなかった高齢のネアンデルタール人が、仲間から介護され、死後は手厚く埋葬されていたとする記事があった。
https://www.afpbb.com/articles/-/3005247

多くの野生動物は、コドモが産めなくなると死んでしまいます。ではなぜ、ヒトにとっては「コドモを産めない個体」、つまり高齢者が必要なのでしょうか?

共食いが行われていた時代に、歯が抜け落ちた老人を介護してしていた、という時代が重なるのはちょっと違和感がある。
人間が人間らしくなった時期は実は分かっていないらしい。
この5~4万年前頃、人間は宗教らしきものに目覚めその結果、共喰いという習慣を止め、年寄りをいたわるようになったのではないだろうか。
一方、「おばあちゃん仮説」というのがある。
女性が閉経することで、子供を産むことはできなくなっても子育てを手伝うようになった。
お年寄りが長生きすることで、人間の寿命も延びたというものです。
何となく、宗教がからんでいるような気がします。
前もこんなことを書いたなあ。 (^^;;