Kublai Khan
南宋の滅亡は漢民族国家の解体と新たな中国の創造を意味した!
2017年08月07日 まごころ解体
南宋の滅亡により、元は中国全土をほぼ手中に収めます。
これは、漢民族以外の征服王朝が初めて中国を統一した瞬間でした。
それまでも異民族が中国王朝を興した事はあります。前述した金も女真族の国家です。
しかし、元より前は広くても中国の半分を支配した程度に留まり、必ず漢民族の国が並び立っていたのです。
次の漢民族王朝である明が建国するまで約100年間、元によって漢民族の文化は徹底的に抑圧されました。
http://www.revive.co.jp/magokoro/scrap_and_build/history-southern-song-dynasty/
『世界史大図鑑』
レグ・グラント/著、小島 毅、越前敏弥/訳 三省堂 2019年発行
この世の武力、領土、財力のすべてを備えた最強の男 フビライ・ハーンが宋を征服(1279年)
フビライ・ハーン より
チンギス・ハーンの孫であるフビライ・ハーン(1215年~94年)は、1251年に大ハーン(モンゴルの最高位の統治者)となった兄モンケのために中国北部を統治した。
中国式の政治を復活させたことから多くのモンゴル人から不興を買い、1258年に危うくその地位を追われそうになるが、モンケが死亡したため、1260年に大ハーンの位に就いた。
おもに漢人から成る官僚制度を確立したが、要所となる町には、帝国への忠誠心の強いモンゴル人の役人(「ダルガチ」)を配した。経済復興策として、最初は宗教的寛容を奨励し、専門知識を採り入れるために、マルコ・ポーロのような外国人を宮廷に招いた。
中国制圧後は、日本や安南(ヴェトナム)、ビルマ(ミャンマー)、ジャワ島に派兵したが、いずれも失敗か、一時的な支配に終わる。晩年は失意のため酒に溺れて、肥満に苦しみ、最後のころの外征には担いかごで移動しなくてはならなかったという。
モンゴル人による中国の支配 より
チンギス・ハーンの孫であるフビライ・ハーンは1260年以降に中国を統治したが、モンゴルの遊牧民の伝統と征服した民族の複雑な文化との折り合いをつけることに腐心した。大草原で昔から守られてきた階級制は、大都市を含む国土を治めるうえではもはや役に立たず、略奪によってすぐに報酬を手に入れるのではなく、すぐれた統治と租税によって時間をかけて利益を得る方法へと転換を図った。
しかし、こうした変化になじめないモンゴル人たちへの懐柔策として、フビライ・ハーンは漢民族よりも大きな権利と特権を与えた。一方で、中国のエリートたちに与して儒教学者を昇進させたり、道教の寺院に資金を提供したりし、自分の息子には仏教の経典を学ばせた。また、農民のための学校を建設し、馬と中継所を使った帝国全域をつなぐモンゴル式の郵便制度を整えた。この郵便制度は商人たちに利益をもたらす。