じじぃの「人の死にざま_1396_文・天祥」

南宋

南宋文天祥

文天祥 ウィキペディアWikipedia)より
文 天祥(ぶん てんしょう、端平3年(1236年) - 至元19年12月8日(1283年1月9日))は中国南宋末期の軍人、政治家である。字は宋瑞(そうずい)または履善(りぜん)。号は文山(ぶんざん)。
滅亡へと向かう宋の臣下として戦い、宋が滅びた後は元に捕らえられ何度も元に仕えるようにと勧誘されたが忠節を守るために断って刑死した。張世傑、陸秀夫と並ぶ南宋の三忠臣(亡宋の三傑)の一人。妻は欧陽氏、子は文道生(1260年 - 1278年)ら。弟は文璧。社会学者の文俊は直系の子孫にあたる。
文天祥は忠臣の鑑として後世に称えられ、『正気の歌』は多くの人に読み継がれた。日本でも江戸時代中期の浅見絅斎が靖献遺言に評伝を載せ幕末の志士たちに愛謡され、藤田東湖吉田松陰日露戦争時の広瀬武夫などはそれぞれ自作の『正気の歌』を作っている。

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『日本の歴史を貫く柱』 副島隆彦/著 PHP文庫 2014年発行
文天祥「正気の歌」
まず、文天祥(1236 - 1283年)という、中国の大官僚を挙げる。中国の南宋時代の宰相(総理大臣)クラスの人物の話から始める。文天祥という人物を考えることが日本人の精神史を考える上でものすごく重要だ。
文天祥が仕えた南宋という王朝は、宋の王朝が、北方の遊牧民である遼(契丹)、金(満州族)それからモンゴルの進出で追われて南へ亡命して出来た王朝だ。
文天祥はこの南宋帝国の状元というから、科挙の試験を一番で受かった人だ。ただ、そのあとすぐに高級官僚になれたわけではない。しばらく浪人みたいなことをしていた。なぜなら当時、南宋の王朝は存亡の危機のまっただなかにあった。北からの元軍(モンゴル)の猛攻にあって、次々に主要都市が陥落しつつあった。首都は今の杭州(今の上海の南の方、揚子江の南側の古都)にあって、中央政府の官僚制度はガタガタになっていた。
南宋の王朝は、その200年前から、遼と金に攻められて南に逃げて来た。その後、元にも攻めらえて、チンギス・ハンの孫であるフビライ・ハンが攻めてきた。そしてさらにぼろぼろになって打ち破られていった。
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この文天祥がつかまって処刑される直前の、1281年に作った有名な詩を「生気(せいき)の歌」という。この漢詩が後世、きわめて重要な意味をもった。日本にまで伝わったこの「生気の歌」が、日本の歴代の知識人層にものすごく大きな影響を与えた。この話を私は、どうしてもしたい。日本のその後の700年間も続くインテリ階級の精神は、まさしくこの文天祥の「生気の歌」で形成されたのだ、と私は大きく気づいたからだ。
 「正気の歌」
 天地有正気  天地に正気あり
 雜然賦流形  雜然として流形を賦(ふ)す
 下則爲河獄  下は即ち河獄となり
 上則爲日星  上は即ち日星となる
 於人日浩然  人に於いては浩然という
 沛乎塞蒼溟  沛乎として蒼溟に塞(み)つ
 皇路当芿夷  皇路芿夷(せいい)に当れば
 含和吐明庭  和を含みて明庭に吐く
 時窮節乃見  時窮して節乃ち見われ
 一一垂丹芿  一つ一つ丹芿に垂(た)る
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北方異民族、すなわち蛮族、北狄(ほくてき)であったのがモンゴル(元)である。この元と争って滅ぼされた南宋の官僚で、最後まで南宋帝国に忠義を尽くした文人文天祥だ。「正気の歌」というのは、だからこれは「気(き)」の歌だ。気(Quiと英語では書く)というのは、「気の元」で今の気功術の気だ。この気は、東洋(東アジア)では、天地万物を支配する力(宇宙の法則)であり道教の道の根本でもある。私たち日本人にも、「元気」「天気」「気分」「気持ちがいい」「気の持ちよう」「気が張る」……の「気」として実在している。この「正気の歌」を、各時代の日本の知識人階級が死ぬほど愛した。