じじぃの「歴史・思想_42_世界史を変えた指導者・チンギス・ハン」

Genghis Khan Explained In 8 Minutes

動画 YouTube
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Genghis Khan Facts

『図説 世界史を変えた50の指導者』

チャールズ・フィリップス/著、月谷真紀/訳 原書房 2016年発行

チンギス・ハン 軍事力によって一大帝国を築いた恐るべきモンゴルの首長 より

チンギス・ハンは非情なリーダーで、世界をあまねく震撼させながら、北東アジアの多数の遊牧民族を融合し史上最大の帝国のひとつを築き上げた。

1206年にオノン川のほとりで開かれたモンゴル諸部族の大集会で、テムジンはすべての人の上に立つ君主、チンギス・ハンを名のった。意志の強さ、野心、そしてその名を知らしめた非情さで、テムジンは何年もかけて権力基盤を固めてきた。敵をことごとく抹殺し、モンゴル族を統一した。いまこそ世界征服に向けた軍事行動にのりだすときだった。
チンギス・ハンがまずねらいを定めたのは中国である。最初に西夏国の国境を攻撃し、1211年に本格的な猛攻を開始した。1214年にモンゴル軍の退去を願った相手から巨額の賄賂を受けとったが、にもかあわらず翌年ふたたび攻撃し、北京を陥落させた。また1219~23年には中央アジアペルシャ(現在のイラン)にあったイスラム教国家ホラズムを攻撃し、街を次々に制圧しながら住民を殺戮し、生き残った者は強制的に自軍に参加させ、農地や美しく配置された灌漑設備を破壊し、瓦礫の山に変えていった。1227年に死亡したときには、領土を大幅に広げ、世界最大の息の長い帝国の基礎を確立していた。
戦いでのチンギス・ハンは冷酷無比だった。チンギス・ハンとモンゴル軍の征服について現在わかっているこのと大半は――1240年頃に書かれた『元朝秘史』の記述は別として――侵略者に略奪された文明諸国の書記官たちが記した報告から得られたものだ。そこには、疾風怒濤のごとく移動するモンゴル軍が定住民族にあたえた数々の恐怖がつぶさに記録されている。そのなかに、ホラズムを攻撃したときのできごとがある。ハンはホラズムの王と貿易関係を築こうと派遣した隊商をオトラルの街(現在のカザフスタンにある遺跡)の長官だったイナルチュクに攻撃され、腹をたてた。王が損害を弁償しなかったため、ハンは20万の兵からなる全軍をさしむけた。オトラルを陥落させると、ハンはイナルチュクの目と耳に溶かした銀をそそぎこんで惨殺した。1226年にも襲来し、いまわしい復讐を果たしている。このときの相手は、ホラズムに対する攻撃に兵を提供するのをこばんだ西夏の統治者たちだった。ハンは首都を破壊し、王族を全員処刑した。

開放的な精神

このようなおそろしい評判がついてまわった人間にしては、チンギス・ハンは宗教にかんしては意外と寛容だった。彼自身は山と風と空の精霊を崇めるモンゴルのシャーマニズム信仰をもっており、最高神「永遠の蒼天」とブルカン・カルドゥン山を崇拝していることで知られていたが、キリスト教、仏教、イスラム教、道教、なんであろうと帝国領内の人々が自由に信仰をもつことを許した。彼は中国東部の山東省出身の道士、丘長春を招聘し、不老長寿の方法を議論した。丘長春に広大な帝国内の全真教[道教の一派]保護をまかせ、「不滅の魂」の称号をあたえた。
晩年には、帝国はアジア一帯に拡大しアドリア海にまで達していた。推定4000万人が彼の軍隊に殺戮された。