じじぃの「神話伝説_46_帝舜(古代中国)」

偉大的帝舜 0001 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=4jizwKzqifY
中国古代王朝 (夏・商(殷)・周)

 ウィキペディアWikipedia
舜(しゅん)は中国神話に登場する君主。五帝の一人。
儒家により神聖視され、堯(ぎょう)と並んで堯舜と呼ばれて聖人と崇められた。また、二十四孝として数えられている。瞽叟の子。商均の父。
帝位についた舜は洪水を治めるために禹を採用し、禹はこれに成功した。その後39年間、帝位にあって最後は禹に禅譲して死去した。なお、舜の子孫は周代に虞に封ぜられている。
南風歌という歌を作ったと言われている。
陳の陳氏の祖とされ、陳からわかれた田斉の祖でもある。
ちなみに白川静は舜は元々帝コクの事であって殷の始祖とされていたと言う説を挙げている。

                        • -

史記の風景』 宮城谷昌光/著 新潮社 1997年発行
帝舜と賢人たち (一部抜粋しています)
庶民でありながら帝位までのぼった人は、中国の歴史を通してながめてみても多くない。その最初の人が帝舜である。ちなみに2番目が漢の高祖の劉邦(りゅうほう)である。帝舜が伝説上の人であるとすれば、歴史上では劉邦が最初の人となる。
――窮蝉(きゅうせん)より以て帝舜に至るまで、皆微にして庶人たり。
と、『史記』の「五帝本紀」に明記されている。窮蝉は帝舜の先祖であり、かれから帝舜まで、みな微賊で庶人であった、ということである。
ときの帝は堯(ぎょう)であった。帝堯は民間にいる舜の評判の高さをきき、どれほどの人物か、とためしてみた。その結果に満足した帝堯は、舜をひきあげ、官職をあたえ、その仕事ぶりを観察した。ふしぎな徳もあることを知って、
――この男なら。
と、決断し、帝位をゆずった。
帝位に即(つ)いた舜は、八緂(はちがい)、八元(はちげん)とよばれる16人の賢人を登用した。その結果、家のなかはおだやかになり、世のなかはよくおさまった。『史記』はそれについて、
――内平(うちたいら)かに外(そと)成る。
と、表現している。いうまでもなく「平成」の元号は、その「内平外成」のなかから2文字をひきだしたものである。
帝舜はほかにも賢人を適所に配した。
その賢人というのが、禹、皋陶、契、后稷、伯夷、き、龍、垂、益、彭祖の10人である。
ここにはたいへん興味のある名がならんでいる。
まず禹は帝舜の没後に帝位にのぼった人で、夏王朝の始祖となる。契は商(殷)の国をおこし、后稷は周の国をおこした。
     ・
さて龍という人物に帝舜はこういっている。
「龍よ、朕(わし)は人をそしることばをやめさせたい。国民をおどろかすことばを畏忌(いき)するものである。なんじを納言に任命しよう。朝から夜まで、朕の命令を出入して、信をたがえてはならぬ」
この納言が、日本の納言(なごん)になったのである。むろん日本の場合は、大納言、中納言、小納言があった。要するに、天子がだした命令を下につたえ、下からのものを天子に奉上する役目がある。帝舜のいう「出入」とはやはりそういうことであろう。ここでまちがいがあると、国民の信をうしなう、と帝舜は注意をあたえたのである。帝舜は文字をつくった商王朝の高祖であるといわれる。それだけにことばを大切にしたのであろう。