じじぃの「科学・芸術_307_中国文明・始皇帝・失われた森」

東方帝王谷 第四集 秦:黄河【Dong Fang Di Wang Gu EP04】 動画 YouTube
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中国の失われた森


NHKスペシャル 四大文明 中国 〜黄土が生んだ青銅の王国〜 映画の宅配DVDレンタルならGEO
近年の発掘調査の急速な進展によって、我々の想像を超えた「古代中国」の姿が浮かび上がりつつある。
中国に文明が生まれた頃、黄土の大地は一面緑の森で覆われていた。その森はなぜ消えたのか。世界の古代文明の中でも最高水準にある「青銅器」は粒子の細かい黄土なくしては存在し得なかった。青銅器で神々をまつり、青銅の武器で武装した古代中国の殷王朝はまさに「青銅の王国」であった。黄土によって築かれた城壁に護られ、黄土の糧で育まれた古代中国。やがて秦の始皇帝によって統一されるまでを知られざる黄土と青銅の物語で綴っていく。
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NHKスペシャル 四大文明[中国]』 鶴間和幸/著 NHK出版 2000年発行
そして森は消えた より
われわれに残された最後の謎は、「古代の森がいつどのように失なわれたのか」ということだ。その話に入る前に殷滅亡後の歴史を略記しておこう。
紀元前1023年(暦年は東京大学教授・平勢隆郎氏にしたがう)、殷を滅ぼした周は殷の王権の象徴であった「九鼎」を奪い、中国の支配者とし諸国の上に君臨した。ここで注意しておきたいのは、「諸国」とはいっても、殷周時代の国は都市国家(「邑 ゆう」とよぶ)のような存在であったという点である。諸国は城郭を中心としたわずかな範囲を支配しているだけで、それ以外の土地はいまだ広大な山林に包まれていた。周はそうした都市国家の盟主となったわけで、決して全中国を領域支配したわけではない。
周は紀元前770年、異民族の侵入によって勢力を失い、中国は春秋戦国とよばれる動乱の時代に入る。激動の世は始皇帝の登場まで、実に550年におよぶ。
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始皇帝に関してはさまざまな概説書が出回っているので、ここでな「失われた森」との関わりから、もう1つの始皇帝像を探っていこう。『史記』の中に興味深い記述がある。始皇帝が全国統一をはたした理由について述べたくだりである。
秦王・政が韓の国の「鄭国(ていこく)という水工(灌漑技術者)に命じて三百余里の渠(きょ、水路)を築かせた。「渠が出来上がると、それに泥水を引いて沢鹵(たくろ)の地(塩分を含んだ土地)四万傾にそそぎ、一畝ごとに一鍾(しょう)(六斛四斗)の収穫をあげた。このため関中は沃野となり、凶年がなく、秦は富強をもって、ついに諸侯を併すことができた」(小竹文夫・小竹武夫訳)。
秦王・政は単に森林を開拓するだけでなく、長大な運河を建造して水を引き、塩害に苦しむ土地を豊かな田園地帯に変えたというのだ。
秦王・政が鄭国に築かせた運河は「鄭国渠」とよばれ、西安から車で4時間ほど北上したところにある。われわれは西安を文物修復センターの研究員・秦建明氏に案内され、現地の取材を行った。秦氏は、1985年から鄭国渠の発掘調査を続けてきたこの遺跡の第一人者だ。
鄭国渠は芤水(けいすい)という川から水を引いた水路である。始皇帝にならって歴代の皇帝や政府が芤水をすいげんとする水路を築いてきたため、この一帯は今も大変豊かな穀倉地帯である。しかし残念ながら鄭国渠自体は今ではすっかり水が枯れ、秦氏に案内してもらわないと水路の跡を見つけることすら困難な状態にあった。
しかし秦氏は水路の跡を丹念にたどり、驚くべき遺跡を発見した。始皇帝時代の巨大なダムである。川の真ん中に土壁を作って水をせき止め、広大な貯水池を作っていたというのだ。貯水池の堤防の一部は今も残っている。万里の長城と同じ版築だ。堤防をたどっていくと川辺に出る。川の真ん中には、直径8メートルほどの巨大な石が2つ置かれていた。ダムの礎石だという。秦氏の調査によると、ダムの高さは30メートル、基礎部分の幅は150メートル、そして堤防とつながる全長は実に2700メートルにおよぶ。このダムと堤防により巨大な人造湖が生まれる。
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始皇帝の遺産のなかでもっとも有名なのは「兵馬俑」であろう。20世紀の考古学史上最大の発見ともいわれる地底の大軍団の威容は、テレビや写真でご覧になられた方も多いだろう。この兵馬俑も森林の犠牲の上に築かれたものである、いうと意外に思われるだろうか。
「俑」とは副葬品として使われた人形のことである。これまでに発掘された俑の数からその総数は8000体におよぶと推定される。これをすべてやきもので作ったのであるから、焼成のためにどれだけ木が使われたか想像もつかない。やきものは俑を収めた建物「兵馬俑抗」の床にも使われている。焼きレンガだ。敷きつめられたレンガを積むと、ちょっとした宮殿ができるほどの量だ。そしてきわめうけが兵馬俑抗の天井である。実は、後に兵馬俑抗は奏を襲った楚の項羽に焼き払われたため天上そのものは残っていない。
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始皇帝は森を開き、そこに水を引くという大規模な活水灌漑を始めた。始皇帝以後、中国の歴代の皇帝はダムや堤防、運河を築き高地を広げていった。新しい大地には穀物だけでなく桑の木も植えられた。貴人たちは毛皮の代わりに絹を身に纏うようになった。人々の暮らしが豊かになればなるほど。森は小さくなっていった。
「そして、黄河の水が黄色になった」と教えてくれたのは、陝西師範大学教授の史念海氏だ。