じじぃの「人の死にざま_926_F・レセップス」

Ferdinand de Lesseps, o visionario empreendedor 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=DTRy9KzeZDs
Memory of The Suez Canal 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=s5eKkEo5m88&feature=related
フェルディナン・ド・レセップス ウィキペディアWikipedia)より
フェルディナン・マリ・ヴィコント・ド・レセップス(Ferdinand Marie Vicomte de Lesseps)は、フランスの外交官、実業家。スエズ運河を建設したことで知られている。
【生涯】
1805年、ヴェルサイユで外交官マティユ・ド・レセップスとスペイン人カトリーヌの間に生まれた。叔父のジャン・レセップスは、ラ・ペルーズ伯の探険航海に参加し、その報告書レセップスの旅行日記の著者。
1854年国際スエズ運河株式会社を設立し、その株式を売却することで国際世論に訴えオスマン帝国スルタン未承認のまま、翌年、試験掘削という名目で着工した。1863年1月サイードが急死した。後継にはイスマーイール・パシャが就いた。イギリスはさらにオスマン帝国スルタンとイスマーイールに圧力をかけたが、フランス皇帝・ナポレオン3世が仲裁に入り、難工事と疫病の蔓延を克服して1869年に完成させ、開通式には7000名の各国の王族や名士が参列した。 その後、スエズ運河会社は莫大な利益をあげ、さながら1つの国家の様相を呈した。
晩年はパナマ運河開発に取り組み、81年パナマ運河会社社長に就任。工事困難と経営の乱脈のため世評が悪化し、資金募集に行き詰まった。新法律の制定で認められた富くじ付き債券を発行して募集につとめたが、会社が89年に破産。史上有名なパナマ疑獄事件が起こる。彼は背任と詐欺のかどで禁固5年を宣告され、上告の結果、93年最高法廷で無罪判決を勝ち取った。しかし、この事件に巻き込まれ名声を失ったのと、彼自身の精神の病とが原因となり、1894年に失意のまま死去した。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
レセップス (1805-1894) 89歳で死亡。 (一部抜粋しています)
フェルディナン・ド・レセップスは、初老期に入って不本意に外交官をやめてから、一念発起してスエズ運河を切りひらく偉業にのり出し、前人未到の難工事と、フランスの勢力がエジプトに及ぶことを怖れる英国の執拗な妨害を克服して、10年の歳月を経て、1869年ついにこれに成功した。
「50歳までのレセップスは公生活に敗北した。常人ならば、そのまま隠居して静かな田園の生活に平穏に老衰して行く筈だったものを、50過ぎて夢を持って出て来てスエズの奇蹟を成就して再び別の人生を扉を開いた。世の中には稀れな履歴である」(大仏次郎パナマ事件』)
11月17日のイスマイリアにおける新運河の開通式は、かけねなくまさに世紀の祝典であった。ときにレセップスは64歳であった。
その数日後に、彼はイスマイリアの小さな教会で、21歳の花嫁ルイズ・ブラガールと結婚式をあげた。レセップスのほうは再婚であったが。
「世間はこの結婚の知らせを聞いて唸(うな)った。更にこの夫婦の間に、後年、男の子と女の子が半ダースずつ生まれたと聞いては、人はもう驚くことを止めてしまった。12人の子供が生まれたのである。ラブレエの物語の中か三銃士やダルタニアンの血縁の体格でないと、存(あ)りそうもないことである。まだ、その時代は豪傑の椅子が残されていた」(『パナマ事件』)
この豪傑は、ついでパナマ運河の開鑿(かいさく)にとりかかった。スエズの成功で超人の座についた彼に、世界がそのことを翹望(ぎょうぼう)したし、彼も神ががりの自信を持った。
1879年、かれは「パナマ運河株式会社」を作って第2の壮挙にのり出したが、しかし、今度はうまくゆかなかった。パナマの地質と雨と悪疫は事前の調査を超えたもので、数万の労働力と数百万の金貨を空しくのみこむばかりであった。レセップスの不撓不屈(ふとうふくつ)の気力、怖れを知らぬ突進力はすべて裏目に出た。資金尽きて、パナマ運河株式会社は富籤(とみくじ)まで発行して募金したが、1889年、ついに破産宣告を受けるに至った。
84歳のレセップスは、一敗地にまみれて田舎に隠棲(いんせい)した。「老年と失意の悲しみにうちのめされて、あれだけ派出で社交的だった偉丈夫も、今はまったく別のひとを見るように、やつれていた」(『パナマ事件』)
しかしこの失敗は、彼をただ引退させただけでは終らせなかった。会社の発行した株や富籤をただの紙きれとされた民衆はごうごうたる非難をあげ、特に富籤発行の許可にあたりパナマ運河株式会社にワイロを強制した大臣や議員のあることが発覚するに及んで、フランス政府を震撼させる一大疑獄に発展した。
パナマ運河株式会社の社長をしていたレセップスの長男――前妻の子――シャルルは逮捕された。やがて父子ともに禁錮5年の判決が下された。
88歳になっていた老レセップス自身は収監をまぬがれたが、みるみる老衰の極に達した。
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翌年の12月7日、彼は灯の消えるように死んだ。
――パナマ運河開鑿がアメリカによって成功したのは、レセップスの死後20年、1914年に至ってからのことである。

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