じじぃの「人の死にざま_747_P・ローウェル」

パーシバル・ローウェル - あのひと検索 SPYSEE
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Red Planet Mars (1952) and Percival Lowell 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=91cIlQQaQEQ
Poor Pluto 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=-VQuuWb874s
パーシバル・ローウェル フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
パーシヴァル・ローウェルは、アメリカ合衆国ボストン生まれの天文学者である。
ボストンの大富豪の息子として生まれ、ハーバード大学で物理や数学を学んだ。もとは実業家であったが、数学の才能があり、火星に興味を持って天文学者に転じた。当時屈折望遠鏡の技術が発達した上に、火星の二つの衛星が発見されるなど火星観測熱が当時高まっていた流れもあった。私財を投じてローウェル天文台を建設、火星の研究に打ち込んだ。火星人の存在を唱え、1895年の「Mars」(「火星」)など火星に関する著書も多い。「火星」には、黒い小さな円同士を接続する幾何学的な運河を描いた観測結果が掲載されている。運河の一部は二重線(平行線)からなっていた。300近い図形と運河を識別していたが、火星探査機の観測によりほぼすべてが否定されている。
また、小惑星 (793) アリゾナを発見している。
最大の業績は、最晩年の1916年に惑星Xの存在を計算により予想した事であり、1930年に、その予想に従って観測を続けていたクライド・トンボーにより冥王星が発見された。冥王星の名 "Pluto" には、ローウェルのイニシャルP.Lの意味もこめられている。
日本研究家でもあり、1889年から1893年にかけて、明治期の日本を5回訪れ、通算約3年間滞在した。来日を決意させたのは大森貝塚を発見したエドワード・モースの日本についての講演だった。彼は日本において、小泉八雲、アーネスト・フェノロサ、ウィリアム・ビゲロー、バシル・ホール・チェンバレンと交流があった。神道の研究等日本に関する著書も多い。
彼が旅の途中で訪れた穴水町にローエル顕彰碑が置かれ、彼が訪問した5月9日にはローウェル祭を開き、天文観測会や講演会が行われている。
なお、彼の業績に対して天文学者カール・セーガンは「最悪の図面屋」、SF作家のアーサー・C・クラークは「いったいどうしたらあんなものが見えたのだろう」と自著の中で酷評している。

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朝日新聞社 100人の20世紀 上 1999年発行
パーシバル・ローウェル (1855-1916) 61歳で死亡 【執筆者】内山幸男 (一部抜粋しています)
パーシバル・ローウェルが火星観測を始めたのは1894年だった。半年後には『火星』という本を書いた。さらに1906年には、ずばり『火星とその運河』を出版した。
「運河は109本、人工的としか考えられない幾何学模様をなす。夏になると極冠の氷が解けて赤道に向かって水が流れる。運河沿いに植物が生えて色が変わる。変色は1日に約82キロの速さで進む」
「運河があるからには、それを造った、侮りがたい知的生物が存在するとの結論にわれわれを導く」
思いこみに推論を重ねた代物だったが、惑星科学の知識が入り交じった、妙に説得力のある文章だった。
専門の天文学者は批判的だったが、大衆には大いに受けた。スエズ運河が1869年に完成、パナマ運河は工事中、という時代だった。
ローウェルと親しかったエドワード・モースは早速、『火星とその秘密』を出版して後押しした。東京の大森貝塚を発見した動物学者だ。
革命の準備で忙しかったレーニンも、1908年、亡命中のジュネーブから母親に手紙を書いている。
「今日、ローウェルの新刊の本『火星とその運河』を読みました。ローウェルはおそらく世界最良の天文台で長い間研究してきた天文学者です。科学的な著作で……」
小説家たちも、この説に飛びついた。H・G・ウェルズは『宇宙戦争』(1898年)を、後年ターザンで有名になるバローズは、『火星のプリンセス』(1912年)など11冊の火星シリーズをものにした。
「火星人が襲来、ニュージャージー州を目指しつつあります……」
1932年に米CBSが放送したドラマ「宇宙戦争」は米国民をパニックに陥れた。それほど、「火星人」は人々の心に住み着いていたのだ。それはブラットベリの『火星年代記』(50年)の時代まで続く。
不思議なことに、ローウェルが名前までつけて火星図に描き込んだ100本以上の運河模様は、当時も今も、だれにも見えない。
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83年、28歳のローウェルが日本にやってきた。
「言葉の順序を逆にしゃべり、筆を右から左に動かして文字を書き、本は一番最後のページから読む……この奇矯さにもかかわらず、彼らも人間である」
5年後に出版した「極東の魂」の一説である。
自信満々、「先進国の文化人」の偏見を振りまきながらも、温かみも感じさせるこの本にラフカディオ・ハーンが感激、日本に来るきっかけのひとつとなった。
以後10年間に4、5回、日本を出入りしながら、延べ約3年、東京で暮らした。能登半島への旅を描いた『能登・人に知られぬ日本の辺境』。神道を研究した『神秘な日本』。一連の著作はアメリカ人の日本人観の原型をつくったといわれる。
もっとも、ドナルド・キーンさんは、この先人に厳しい。
「彼は日本人を不可解な民族、ものまね国民だといいました。おかげで、私は50年間も、その間違った考えと闘い続けなければなりませんでした」
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火星観測は、火星が地球に接近する2年おきにしかできない。その合間に、得意の数学を気敷いて天体力学の膨大な計算に取り組んだ。これが後世に名を残すことになった。
計算の結果、1915年、「海王星の外側には9番目の惑星Xがある」という論文を発表した。翌年11月、ローウェルは脳卒中で死んだ。61歳。このため、予言は遺言のかたちになった。
兄の「遺言」を確認させよう。弟でハーバード大学総長のアポットは、29年最新鋭の望遠鏡を天文台に寄付した。若い天文愛好家クライド・トンボーが雇われた。トンボーは半年後の30年2月、ほぼ予言通りの軌道に新しい天体を発見した。
新惑星は、パーシバル・ローウェルのPとLをとってPluto冥王星)と名づけられた。

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