じじぃの「歴史・思想_27_合衆国史・バージニア植民地」

13 American Colonies | US History | Kids Academy

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=vd0fMpAIs1s

バージニア植民地

バージニア植民地

ウィキペディアWikipedia) より
バージニア植民地は、北アメリカ大陸に設立されたイギリス領植民地である。
1607年にバージニア会社によって設立され、1624年にバージニア王室領植民地(Crown colony, 1624年 - 1776年)となった。そして1776年のアメリカ独立宣言により、アメリカ合衆国最初の13州(いわゆる「13植民地」)の1つ、バージニア州となった。
チェサピーク湾に面し、現在のバージニア州ウェストバージニア州ケンタッキー州の全域、およびオハイオ州インディアナ州イリノイ州ミシガン州ウィスコンシン州を領域とした。同じくチェサピーク湾に面する北隣のメリーランド植民地と併せてチェサピーク植民地とも呼ばれる。

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『植民地から建国へ 19世紀初頭まで シリーズアメリカ合衆国史①』

和田光弘/著 岩波新書 2019年発行

1619年の光と影 より

ジェイムズタウンを首府として入植地を拡大するヴァージニア植民地は、入植者に土地を与える「人頭権」などを導入して移住を促し、1619年8月初めには英領アメリカの地で最初の植民地議会を開催するに至る。
ただし同じ年、もう1つの興味深い史実が確認される。証言するのは妻ポカホンタスを亡くして単身イギリスから戻ったジョン・ロルフである。彼の書簡には、「8月末頃、オランダの軍艦が到達し、……20余名の黒人を連れてきた」とある。この「軍艦」は実際にはオランダ船籍ではなく、オランダが発行した私掠免許状(民間の船が他国の船を攻撃・拿捕することを国家が認めた他国船拿捕免許状)を携えたイギリスの私掠船で、「20余名の黒人」はポルトガルの奴隷船から略奪した捕虜であった。ロルフは私掠の責任をオランダに転嫁する意図で、このような表現を用いたのだろう。
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とまれ、この1619年がヴァージニアに、すなわちのちにアメリカ合衆国となる地に、初めて黒人奴隷がもたらされた象徴的な年とされる。しかしこの時点ではまだこの地に奴隷制は確立しておらず、法的には、やはり後述する年季契約奉公人――年季が明けると解放される強制労働力――として扱われたと考えられる。
ただし、1620年(史料上の年次は旧暦の1619年)「3月初め」のヴァージニアにおける人口調査報告を見ると、「数名のプランター[入植者・農園主]に仕えている黒人(二グロ)」として「32名」、その内訳は「黒人男性15名」、「黒人女性17名」とあり、すでに人種の別が強く意識されていた様子がうかがえる。この32名に前述の20名が含まれているかは定かではないが、両史料の史実の間におよそ半年ほどの開きしかないことから含まれている可能性がある。また逆に、1619年「8月末頃」以前に黒人が持ち込まれていた可能性も考えられるが、ロルフのこの書簡に先立つ明確な証拠はない(たとえば1586年にドレイクの艦隊がロアノーク島の入植者を救助した際、船中のスペースを確保するために、積んでいた多くの黒人奴隷を解放して同島に降ろしたとの説もある)。
とまれ同じ1619年に、最初の自治的議会と最初の黒人「奴隷」という、いわばアメリカの光と影の双方を象徴する出来事がこの地で生じたのである。ジェイムズタウン、そしてヴァージニア植民地は、その意味でもアメリカの原型に他ならない。
一方この地の先住民たちは、1618年に首長ポウハタンが死去したのち、入植者に対して態度を硬化させ、1622年「3月22日金曜日」、ついに一斉蜂起してヴァージニア入植者人口のおよそ3分の1を殺害したとされる。ただし黒人には危害を加えなかったという。首府ジェイムズタウンは、キリスト教に改宗したある先住民の密告でかろうじて難を逃れたが、同年亡くなったロルフは、この蜂起の犠牲になったとも、また病死したとも伝えられる。