じじぃの「歴史・思想_82_中東の世界史・アルジェリア(植民地化)」

The French in Algeria | Featured Documentary

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=NOPfoaTaINU

France - Algeria

最後発の日本と違い、大航海時代から始まった植民地支配を いまさら「反省・謝罪」をしない欧州・フランスの事情 [橘玲の世界投資見聞録]

2016年4月8日 エキサイトニュース
近現代史をみれば明らかなように、日本は最後発の「帝国」で、最初の帝国主義戦争は1894年の日清戦争朝鮮半島を植民地化したのは1910年だ。それに対してヨーロッパ列強がアフリカ、南北アメリカ大陸を侵略し、奴隷制で栄えたのは15世紀半ばの大航海時代からで、イギリスが東インド会社を設立してインドなどを次々と植民地化したのは1600年代だ。

フランスのアルジェリア支配も1830年から1962年まで130年に及ぶ。日本とはその規模も影響力も桁ちがいなのだ。

私見によれば、これが日本が中国・韓国などから過去の歴史の反省と謝罪を求められる一方で、欧米諸国が植民地時代の歴史を無視する理由になっている。日本の場合は謝罪や賠償が可能だが、ヨーロッパの植民地支配は現代世界の根幹に組み入れられており、いまさらどうしようもないのだ――イスラエルパレスチナの対立はヨーロッパのユダヤ人差別と第二次大戦中の場当たり的なイギリスの外交政策が引き起こしたが、だからといって過去を「反省・謝罪」したところでまったく解決できないだろう。
そのためヨーロッパでは、「植民地時代の過去」は日本とはまったく異なるかたちで現われる。
https://www.excite.co.jp/news/article/Diamond_88860/

『「中東」の世界史 西洋の衝撃から紛争・テロの時代まで』

臼杵陽/著 作品社 2018年発行

アルジェリアの過酷な植民地化 より

アルジェリアはなぜ植民地化されたのか。これにはフランス国内の偶然的要素がかなり作用している。運命の悪戯と片づけるには、その後のアルジェリアが経験した植民地化の歴史はあまりにも過酷かつ悲惨過ぎると言えるが。ただし、やはり偶然の帰結であるということは強調しておかなければならない。
フランスではナポレオン没落後の1814年にブルボン王朝が復活するが(第二次王政復古)、1830年にその王朝が人気取りのために海外へ出兵した先がアルジェリアだった。同年に7月革命が起こり、ブルボン王朝は潰れるわけであるが、フランスによるアルジェリア占領はその後もずっと続いてしまうのである。
ナポレオン戦争中、フランス軍アルジェリアから穀物を徴収したが、その対価を払わずに踏み倒した。1827年アルジェリアの太守(デイ、オスマン帝国から派遣されていた総督)フサイン・パシャは催促したのだが、その交渉の中で太守がフランス領事ピエール・デヴァルを扇で叩いた。この些細な出来事がフランスが軍隊を派遣する口実になり、軍事占領に至るという、悪い冗談のような結果に至った。借金をしている方が面の皮が厚いのか、踏み倒しておいて、逆に占領するという方向に向かったのだ。
したがって、フランスはとにかく明確な目的があって占領を開始したわけではないということが強調されてしかるべきだろう。フランスはアルジェリアを占領してみたものの、太守たちがいなくなったため、国が混乱し始める。ちょうどアメリカがイラクを占領した後の状態と同じである。フランスのアルジェリア占領も、国内問題への関心を外に振り向けるために軍隊を派遣し、占領に抵抗した地方政権を潰してしまった。しかし、そのまま放っておくと大変なことになるので軍隊は本国に戻れなくなった、という悪循環に陥ったのである。
オスマン帝国から派遣されてきた太守の政権が倒れ、それに代替するものがフランス軍しかなかった。現地の人々の間でそのようなフランスの占領に対する反発が出てくるのは当たり前だ。そのような混乱した状態の中で登場したのが、民族運動の指導者としてよく知られているアブドゥルカーディル・ジャザーイリー(1808 - 83)なのである。
アブドゥルカーディルはアルジェリア西部のカビール地方の出身である。新興勢力として登場し、その勢力を次第に伸ばしていった。彼はカーディリー教団という、スーフィズムイスラーム神秘主義)のタリーカ(教団)のネットワークを有しており、急速にフランスに対する抵抗の組織を広げていった。
     ・
残念ながら、アブドゥルカーディルは1847年に敗北して指導者の座を追放される。しかし、ルイ・ナポレオン3世)の時代に、彼は牢獄から解放され復権する。フランスは、ナポレオン3世時代になると、現地の勢力を利用しながら支配するかたちに少しずつ方針が変わっていったが、アブドゥルカーディルの解放はその象徴的なエピソードである。幕末にあたる1864年から68年まで駐日フランス公使として日本に赴任したレオン・ロッシュ(1809-1901年)もアブドゥルカーディルと深い関わりを持っている。ロッシュは1832年からおよそ32年間の名が気にわたってアルジェリアをはじめとする北アフリカに滞在した。彼はアラビア語にも堪能で、フランス軍の通訳官としても活躍した。そのため、ロッシュはアブドゥルカーディルとも対仏抵抗を止めるよう交渉したことでも知られている。
アルジェリアでは、単に軍隊を駐留させるだけではなくして、現地の人たちの土地を収奪しながら、そこに乗っかった上で農業経営が始められた。フランスやスペイン、イタリアから入植者たちがどんどんと入ってくる。それがアルジェリアにおける問題を引き起こしていくことになった。
土地は、フランス本国からやって来たお金を持っている人たちによって経営された。現地の人々は、小作化、または土地そのものから切り離され都市労働者、あるいは農村での労働者になっていった。土地という生産手段から切り離される状況が生まれたのである。そういうことから生活が成り立たなくなったので、人口が急激に減少、つまり多くの現地の人々は死亡することになった。
このような過酷なやり方でアルジェリアはフランスに植民地化された。中東において植民地化の最も過酷な形態と言ってよいかと思われる。1950年代終りから60年代にかけて、独立戦争が起こったが、その戦争も激烈を極め、100万人以上の人々が亡くなったと言われる。