じじぃの「人の死にざま_1623_ヘンリー8世(イングランド王)」

英国国教会、初の女性主教が正式に就任 Church of England creates first female bishop 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=80ejLZvFtG0
Church of England

ヘンリー8世イングランド王) ウィキペディアWikipedia) より
ヘンリー8世(1491年6月28日 - 1547年1月28日)は、テューダー朝第二代のイングランド王(在位:1509年4月22日(戴冠は6月24日) - 1547年1月28日)、アイルランド卿のちにアイルランド王(在位:1541年 - 1547年)。イングランド王ヘンリー7世の次男。 百年戦争以来の慣例に従い、フランス王位への要求も継続した。
6度の結婚に加えて、ローマ・カトリック教会からのイングランド国教会の分離によって知られる。ローマと対立し、修道院を解散し、自ら国教会の首長となった。だがローマによる破門のあとも、カトリックの教義への信仰は失わなかった。また、ウェールズ法諸法によって、イングランドおよびウェールズの統合を指導した。
絶頂期においては、魅力的で教養があり老練な王だと同時代人から見られ、ブリテンの王位についた人物の中で最もカリスマ性のあった統治者であると描かれている。権力をふるいながら、文筆家および作曲家としても活動した。薔薇戦争の後の危うい平和のもとで女性君主にテューダー朝をまとめることは無理だと考え、男子の世継ぎを渇望した。そのため6度結婚し、イングランドにおける宗教改革を招いた。次第に肥満して健康を害し、1547年に薨去した。晩年には好色、利己的、無慈悲かつ不安定な王であったとされている。後継者は息子のエドワード6世であった。

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キリスト教の本 下 聖母・天使・聖人と全宗派儀礼 増田秀光/編 学習研究社 1996年発行
会衆派(組合派) 原始社会に範を求めた自主独立の教会運営 より
会衆派とは、教会員の互選によって選ばれる役員による教会管理と、教会同士で支配・従属関係にならず、各教会の自主独立を標榜、実践する教会をいう。たとえばバプテスト派であると同時に会衆派でもあるというように、会衆派は教会組織面の考え方をおなじくする者の総称ともいえる。
とはいえ、会衆派は単なる教会の組織論や制度論にとどまるだけではなく、その信仰論と分かちがたく結びついている。
現在、会衆派は英米に多く、バプテスト派教会、自由プロテスタント教会、ユニテリアン教会などが代表的である。
会衆派の元来の考え方は、長老派と同様にカルヴァニズムに由来する。その後、ピューリタン、とくにピルグリム・ファーザーズと呼ばれるアメリカに移住した勢力が長老派と共に会衆派の旗手となり、この両派がアメリカのプロテスタント系教会の2大バックボーンとなっていったのである。
会衆派は初期に分離派ないし独立派とも呼ばれたが、それは1550年頃、イギリスで、英国国教会の方針に反対する「分離者」が集まり、独自に礼拝儀式を行なったことによる。
分離派はエリザベス1世の宗教改革に満足せず、より徹底化した改革を求めたことで共通している。
その中心人物となったのがイギリス会衆派の祖といわれるロバート・ブラウンだった。
ブラウンによると、英国国教会は国家権力やカトリックと癒着しているために、堕落し分裂していった。国家や外部権力から完全に独立した個別の教会のみが真実の教会であり、キリストこそが教会の唯一の首長、全信徒は祭司、預言者、王であり、聖職者が特別な権威を持つことは許されないと主張した。
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会衆派教会は他教会との合同に対する指向性が強い。アメリカではキリスト合同教会が合同化によって誕生。イギリスでは1972年に会衆派と長老派が統合し、合同改革派教会を設立した。日本でも会衆派教会が設置されていたが、1941年、日本基督(キリスト)教団として合流した。

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『「歴史」の意外な結末―事件・人物の隠された「その後」』 日本博学倶楽部/編 PHP文庫 1998年発行
離婚のためにイギリス国教会までつくったヘンリー8世の再婚生活はいかに? より

イギリスには、カトリックともプロテスタントとも違う、独特の「イギリス国教会」がある。
イギリス国教会は、国王の離婚と再婚という、じつに個人的な理由から誕生したものだ。1509年に即位した英国王ヘンリー8世(在位1509 - 47)は最初、スペイン王女キャサリンと結婚していたが、キャサリンが宿した6人の子供のうち、無事に育ったのはメアリー王女だけで、王子誕生が望めそうもないため、キャサリンと離婚して、アン・ブリンと再婚したいと考えた。
だが、そもそもキャサリンとの結婚が、教皇の特免状を得て、死んだ兄の妻と結婚したといういわく付きのものだったうえ、ローマ教皇庁の実質的な支配者である神聖ローマ帝国皇帝カール5世がキャサリンの甥だったため、教皇庁から離婚の許可が出ない。
そこで、ヘンリーは、1533年、キャサリンとの結婚を無効とする裁定を教会裁判所に出させ、強引に離婚して、アンと結婚式を挙げた。それでカトリック教会と斬絶してしまったので、イギリス国教会をつくったのだ。
そうまでして離婚して再婚したのに、その後、彼とアンとの結婚生活は長続きしなかった。
たった3年後に、彼は、なんとアンを「姦通罪」の名目で処刑し、ジェーン・シーモアと結婚。ジェーンの病死後、王妃を次々に離婚したり、処刑したりして、結局、最初のキャサリンから3人目のキャサリン(キャサリン・パー)まで、6回もの結婚を繰り返したのだった。
待望の王子はジェーンが産んだが、このエドワード6世(在位1547 - 53)は病弱で、父の死後たった6年の治世で死亡。
結局、その跡を、最初のキャサリンが生んだメアリー、次いでアンの生んだエリザベス(1533 - 1603、在位1558〜1603)が継ぐことになるのである。