じじぃの「科学・芸術_158_イギリス・イングランド国教会」

映画 『エリザベス:ゴルデン・エイジ』 予告編 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=XcUrXtg0AW8
カンタベリー大聖堂

イギリス国教会ピューリタンの違いについて。 2009/7/17 Yahoo!知恵袋
質問
イギリス国教会は、ほぼカルヴァン主義を採用している」と教科書には書いてあります。
でもピューリタンは迫害されたりしたわけですから両者は違うんですよね? どう違うのですか?
回答
イギリス国教会というのは元々ヘンリー8世が妻のキャサリンとの離婚をローマカトリックに認められなかったため独立した組織として立ち上げるために作られたものです。
なので、頭がローマ教皇からイギリス国王になっただけなので神学上の変化というのは僅少です。
んでローマにたいし抗議(プロテスト)したんですからプロテスタントに分類されるわけです。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1028397145
米国聖公会 ウィキペディアWikipedia) より
18世紀にアメリカ合衆国がイギリスから独立すると創設された。アメリカ独立戦争以前はイングランド国教会の一部であり、聖職者は就任にあたりイギリス国王の承認を得る必要があった。コネチカット州の聖職者がサミュエル・シーバリーを主教に選出したとき、シーバリーはイングランドで主教按手を求めたが、それはイギリス国王との関係から困難であることが判明した。そこでスコットランドへ行き、当時国家から迫害されていたスコットランドの主教たちによりアバディーンで主教に任ぜられた。これは1784年11月14日のことで、このとき初めてイギリス諸島以外に任命された聖公会主教が誕生した。
米国聖公会の初代主教はスコットランド聖公会により主教に任命された。このため米国聖公会は、スコットランド聖公会を通じた使徒継承を主張している。スコットランドとの関係を示すため、米国聖公会の紋章にはスコットランドのセント・アンドルー・クロスをかたどった意匠が使われている。
アメリカ福音ルター派教会と完全相互陪餐の関係にある。

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『イギリスを知るための65章【第2版】』 近藤久雄、細川祐子、阿部美春/著 赤石書店 2014年発行
アングリカン・チャーチ 中道路線の国教会 (一部抜粋しています)
ロンドンに観光旅行に出かけ、ウェストミンスター寺院セント・ポール大聖堂を訪ねない人はまれであろう。しかしながら、これらの寺院がイングランド国教会(the Church of England あるいは Anglican Church)というイギリス独自のキリスト教会に属していることを知っているひとは意外と少ない。
実はイギリスは16世紀に宗教改革を経験し、それ以来キリスト教を国教と定めているヨーロッパでも数少ない国のひとつなのである。もっとも、北アイルランド1871年に、ウェールズは1914年に国教会の制度を廃止したので、現在ではイングランドイングランド国教会スコットランドスコットランド国教会がそれぞれの国教として残っているだけである。
イングランドではイングランド国教会を国教としているので、法律上の上でもイングランド国教会の位置づけが明確になされており、たとえばイギリスの王位につくものはイングランド国教会の教会員でなければならないし、即位に際してはイングランド国教会の擁護者になることを誓約させられることになる。またイングランド国教会にとってはいわば本山ともいうべきカンタベリとヨークの寺院の大主教をはじめとした主な聖職者は、内閣総理大臣の助言を得て国王が任命することのなっている。つまりイングランド国教会は国家と密接なつながりを持っているのである。
では、イギリスのみがなぜ、他のヨーロッパ諸国とは異なる独自の教会をつくり、なかんずくそれを国教にまでしたのであろうか。
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ヘンリー8世(1491〜1547)が3番目の妻ジェイン・シーモアとの間にもうけたエドワード6世が即位すると、イングランド宗教改革は一層進められたが、彼の後を継いだメアリは母親キャサリンから受け継いだカトリックを再興しようと過酷な政治を行い、改革派に対して火刑などの弾圧を加え、後にブライディー・メアリ(残忍なメアリ)とあだ名されるほどであった。この時代のイギリスの宗教は、聖書を重視するエドワード6世プロテスタントからカトリックの再興をはかるメアリへと大きく揺れ動いていたのである。やがてメアリの治世が終ると、ヘンリー8世アン・ブーリンの間に生まれたエリザベス(1533〜1603)が即位し、国内を二分していた宗教上の対立を統一して現在のイギリス国教会の基礎をつくりあげた。
エリザベスはプロテスタントの信仰を抱いていたが、分裂したイギリスをまとめるために様々な妥協や中道的な宗教政策を行った。具体的にはカトリックの色彩を色濃く残す儀式を取り入れたり、一方では多くの人を排除する結果になりかねない厳密な神学的定義などは避けたり、むしろ政治的とも思えるような妥協を行った。当然ながら、こうした態度には教義的にみて曖昧な部分が多く、後にこうした点を批判し国教会のさらなる改革を求める人々があらわれてくる。アメリカ建国にも深く関わったピューリタンと呼ばれる人々がそれであった。
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このように15世紀から17世紀までのイギリス宗教改革の歴史を見てくると、政治に翻弄されながらカトリックからピューリタンまでの間を揺れ動き今日の中道的なイングランド国教会ができていった過程がよくわかる。実際にイングランド国教会の集会に出てみると、聖歌隊が香を焚きながら入ってきたり、司祭がカトリックの司祭とよく似た祭服を着用していたり、とり行われる儀式のやり方がまるでカトリックの教会で行われる儀式とそっくりであることに気がつく。しかしながらそれでいて、説教はラテン語ではなくすべて英語である。イングランド国教会の教会の中では、まさにカトリックプロテスタントの中間的な形で宗教儀式がとり行われており、ヘンリー8世の離婚問題に始まり、エリザベス1世が仕上げを行った。いわば中道路線の宗教改革が、その後も紆余曲折を経ながら定着したのが現在のイングランド国教会の姿であると言ってよい。