じじぃの「科学・芸術_556_イギリス史・アンジュー帝国」

Rise and Fall of the Angevin Empire 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=2bro8xlOwxM
アンジュー帝国

『王様でたどるイギリス史』 池上俊一/著 岩波ジュニア新書 2017年発行
フランス語を話す「帝国」の王たち より
事実上、ウェセックス家最後のイングランド王であったエドワード証聖王が1066年1月に亡くなると、賢人会議がウェセックス伯でクヌートとも姻戚関係にあるハロルドを王に選出し、彼はウェストミンスター修道院で戴冠しました。
しかしノルマンディー公ウィリアムはハロルドを王と認めず、1066年に750隻の船団の1万2000の兵に加えて馬も多数乗せてやって来て、イースト・サセックスの港町ペヴェンシーに上陸します。歩兵中心でまともな甲冑もなく槍と斧のみで武装したアングロ・サクソン軍に対し、ノルマン軍は騎士を擁し、しっかりした防具で身をよろい、槍、剣、鎚矛(つちほこ)を武器に戦いました。さらに射手もいました。
同年10月、ハイスティングの戦いでハロルドは眼を射抜かれ、ノルマン軍の勝利に終わりました。賢人会議はしぶしぶウィリアムを王に推挙します。戴冠してノルマン王朝をひらいたウィリアムは、ウィリアム1世征服王(在位1066〜87年)と呼ばれます。これがノイマン人によるイングランド制服、いわゆる「ノルマン・コンクェスト」です。
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ヘンリ1世(在位1100〜35年、ウィリアム1世の末子)は行政分野でも功績があり、各州にひとりずつ長官をおいて租税徴収権と裁判権を与え、それを民事裁判に基礎としました。年2回、復活祭および聖ミカエル祭に州長官が王宮にやってきて会計報告する規則でした。
また王は司教任命権を主張して教皇と争い(聖職叙任権闘争)、その妥協策として「任命権は教皇にあるものの、司教は王を直接の主君として忠誠を捧げる」ということで折り合いました。それは将来、16世紀に決定的になるローマ教皇との決別、宗教改革につながる第一歩だったと言えるかもしれません。
このように功績の大きかったヘンリ1世ですが、内輪の権力闘争は免れることができませんでした。ノルマン朝から、約500年後のチューダー朝末期まで、王冠をめぐっての争いは絶えることがなかったのです。
まず長兄ロベールが十字軍から帰って来ると、弟ヘンリがイングランド王位に就いているのを見て激怒します。そこで1101年7月、ロベールは軍勢とともにポーツマスに上陸しましたが、タンシュブレーの戦いでヘンリに敗れて捕虜にされ、ウェールズカーディフ城に28年間にわたって、その死まで幽閉されました。
しかし、ヘンリ1世の後任でまたもめました。ヘンリには男の後継ぎがなく、バロンたちに「娘のマティルダ神聖ローマ帝国ハインリヒ5世に嫁いでいたが呼び戻された)を女王に迎えよ」と言い残して死にました。ところが女性が王になるのを嫌ったバロンたちは、ウィリアム1世の孫でヘンリの甥にあたるスティーヴン(在位1135〜54年)を支持したのです。
ブーローニュ伯だったスティーヴンは、フランスから海を渡ってやって来ると、有力者たちの支持をえて1135年に戴冠します。そこでマティルダとの間に内戦がおき、1154年まで20年近く続きます。争いは、スティーヴンがマティルダの息子ヘンリを自分の後継者にすることを約して、ようやく収まりました。これがヘンリ2世です。
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ティーヴンがマティルダとの約束に従って王位に就いたヘンリ2世(在位1154〜89年)以後、1399年のリチャード2世の廃位までを、プランタジネット朝と呼びます。これはヘンリの父アンジュー伯ジョフロワ4世が、エニシダの木(プランタジネット)を紋章としたためについた名前です。
ヘンリは父からはアンジュー伯領とそれに接するメーヌを受け取り、母からはイングランドに加えてノルマンディーをも得ました。まさに英仏両方にまたがる大領主となったのです。
さらにその領地は、自身の結婚によっても増えることになります。ヘンリは1152年、パリとボルドーを結ぶ街道でたまたま出会って見初めたアリエノール・ダキテーヌと結婚しました。アリエノールは、じつはフランス王ルイ7世の元王妃で離婚したばかりでした。
大領主でもあるこの女公と結婚したヘンリは、ポワトゥー、ギュイエンヌ、ガスコニュからなるアキテーヌ地方を手にいれ、それまでのイングランド王の大陸領土を併せて、ほぼフランスの西半分を王領としたのです。この海峡を挟んだ英仏大領地をアンジュー帝国と呼ぶ習わしがあります(図.画像参照)。