じじぃの「科学・芸術_664_ケルト神話・ノルマン王朝」

Rei Arthur / King Arthur Anime Opening 1 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=62tsVCxOoO4
British history

ケルト人とは コトバンク
古代ヨーロッパの中部と西部に住み,ローマ人がガリア人と呼んだ人種であるが,不明な点が多い。その言語はインド=ヨーロッパ語族に属する。
先史鉄器時代の遺跡出土品から,南ドイツのバイエルンおよびボヘミアあたりが原住地と推定される。前7世紀頃からフランス,スペイン,ブリテン島,イタリア,バルカン半島小アジアなどに移動。

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ウェールズのまっかなホント』 ジョン・ウィンターソン・リチャーズ/著、桜内 篤子/訳 マクミランランゲージハウス 2000年発行
英語に訳せないウェールズ語の詩 より
ウェールズの文化で合唱以外に目立ったものといえば詩であろう。他のウェールズのものの多くがそうであるように、詩もまとまりに欠ける。ウェールズ語で書かれた詩と英語で書かれた詩があることもその理由のひとつだ。
ウェールズ語の詩にはケルトの吟遊詩人たちにさかのぼる古い歴史があり、それはウェールズ人の生活の大事な一部を占めていた。イングランドの学者たちはたちてい無視するが、ウェールズ語の詩がヨーロッパ文化に及ぼした影響には大きなものがある。中世のロマンスの原型となったアーサー王伝説をつくりあげたのもウェールズ人であり、そのアーサー王ウェールズ人であった可能性が強い。
ウェールズ語の詩は、豊富な語彙と、韻よりリズムに重きを置くことで知られる。しかし、ウェールズ人が自慢するように英語に翻訳するのは不可能に近い。英語では表現しきれない言葉が多すぎるのだ。
英語で書かれたウェールズ人の詩は、最大の特徴であるウェールズ語を使っていない点で物足りないが、伝統は生かしている。

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ケルトの水脈 (興亡の世界史)』 原聖/著 講談社 2007年発行
ノルマン王朝とアーサー王伝説 より
ギョーム征服王の息子、イングランド王ヘンリー1世(アンリ)の娘マティルダ(マティルデ)とアンジュ―伯ジョフロワ4世の子が、ヘンリー2世として、1154年、プランタジネット朝を興す。ヘンリー2世は、父からはイングランドとノルマンディー公領を継承し、さらに1152年にはアキテーヌ公国女性相続人アリエノールと結婚して、フランス南西部アキテーヌ公領も手中に収めた。
現在の英仏両国の相当部分を領地とする、広大なアンジュー帝国はこうして誕生したのである。もちろんこれで実行的な支配は期待できない。王は有力諸侯のひしめく大陸の領土を巡回するため、フランスに滞在することが多く、ノルマンディーのルーアン(フランス西部・パリと同じセーヌ川が流れている)が実質的な首都だったようだ。これはノルマン・コンクウェスト以来、ケルトイングランド王に共通することであり、したがって英語を操る能力はなく、もっぱらノルマン・フランス語を用いていたことになる。
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アーサー王伝説が宮廷で普及するもとになったのが、1138年頃書かれたとされる『ブリタニア列王史』である。研究者の見解は一致を見ているというわけではないが、著者ジェフリー・オブ・モンマスは、1100年頃、ワリア南部のマンモスに生まれ、その家系はノルマン・コンクウェスト後のアルマリカからの移住者である。ジェフリー自身は人生の大半をオックスフォードで過ごしたようだ。
『列王史』で展開されるアーサー王の物語をここでかいつまんで紹介しておこう。
コルノウィイ公ゴルロイス王のティンタジェル城には、美貌の公妃インゲルンが暮らしていた。ブリテン島の王ウーサー・ペンドラゴンがほれ込んで、魔術師マーリンの薬によって留守中の公に扮し、それとは知られずに后を犯す。この時にできたのがアーサーだったが、ゴルロイス王が戦死し、ウーサーがインゲルンを娶(めと)り、アーサーの誕生は正当化される。だが王は毒を盛られ死ぬ。アーサーは15歳で即位する。ヒルベニア各地を次々と征服し、大陸ではアルモリカの王オエルの加勢をえる。そしてブリテン島一の美女と讃えられた、ローマ貴族の家系グエンフマラ(グエンフワラ、グエンフェラ、グイネヴィアとも)と結婚する。しばらくして大陸ではローマ人との戦いがはじまり、治世を甥のモルドレッドに託して、大陸への戦いに旅立つ。だが甥の裏切りを知り、戦いの指揮をオエルに任せて島に戻る。コルノウィイのカムランが甥との最後の戦いの場となり、モルドレッドは死に、アーサーは瀕死の重傷を負って、アヴァロン島に旅立つ。
全体的にみれば、この書の意図はブリテン島のブリトン人再興であり、ワリアの復興である。13世紀にはカムリー語に翻訳され(2種の訳書)、14世紀にさらに2種、18世紀までの訳本は、以前の版の再構成だけのものを含め全部で60種にものぼる。ブレイス語版が知られていない状況からすると、驚異的な反響といっていいのであり、おそらく大陸ヨーロッパでの流布に匹敵するといっても過言ではない。