じじぃの「科学・芸術_557_イギリス史・救貧法」

The English Renaissance 動画 YouTube
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エリート ジェントルマン

ジェントルマンとは コトバンク
歴史的には中世末期以降の英国で大きな政治的・経済的役割を果たした社会層。おもに地代収入によって特有の生活様式,教養などを維持した有閑層で,その内容は時代によって変化したが,貴族と,大多数の身分的には庶民である〈ジェントリーgentry〉からなった。また大地主以外でも開業医,法律家,聖職者や富裕な商人なども含むことがあった。
荘園制の解体の中で農業経営によって富を蓄積し,中世末には地方政治をにない,近代絶対主義時代には中央政治に進出,名望家支配の体制を固め,17世紀以降の市民革命に際しても多大の役割を演じた。ブルジョアジー台頭後は中産階級以上の地位・財産・教養をもつ者(紳士)を広くさし,単なる尊称としても用いられるようになった。

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『王様でたどるイギリス史』 池上俊一/著 岩波ジュニア新書 2017年発行
絶対主義の確立とルネサンス より
エリザベス1世(在位1558〜1603年)は宗教面では国教会を確立し、内政は祖父と父が始めた絶対主義を完成させ、そして外交面では華々しく海外進出を成し遂げました。しかし今日その名声をもっとも輝かせているのは、文化面でルネサンスの鼻を咲かせたことでしょう。
彼女の母アン・ブーリンは1536年に5人の男との姦通で訴えられ、その5人とともにヘンリ8世の命で処刑されます。しかしヘンリの6人目の王妃キャサリン・パーが最高の教育を自分の子でないエドワード王子やエリザベス王女にも与えてくれたおかげで、エリザベスは優れた教養を積むことができました。ラテン語ギリシャ語、フランス語、イタリア語にも長け、各国の使節と通訳なしでやりあい尊敬を集めたそうです。エリザベスの宮廷を中心に文化の黄金期が現出し、彼女はそれにふさわしい豪奢な衣装をまとって公に姿を現しました。
では、いわゆるイギリス・ルネサンスの成果をここで眺めてみましょう。エリザベスの父、ヘンリ8世時代の人文学者として有名なのが、すでに紹介したトマス・モアです。法律学とともに古典研究を修めて王に信頼された大法官になりましたが、離婚問題にあくまでも反対したために、ロンドン塔に入れられて処刑されてしまいました。彼の著作『ユートピア』の第1部は、暴君や私有財産を原因とする社会の善悪を論じ、第2部ではかような害悪のない理想郷を、宗教的寛容、6時間労働、共産制、男女の差を問わぬ教育などで表しています。これは後のユートピア文学のモデルとなり、また社会主義者の思想にも影響を与えました。
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さて、それでは王は、この貴族社会・階級社会でどんなスタンスを取ってきた、あるいは取るべきなのでしょう。王室とその一族は当初外国からやってきた「よそ者」でしたが、この国に階級制度と階級意識をつくった大元でもありました。階級社会の頂点にいるのが王で、王は血統の重要性を身をもって示すとともに、少数の貴族たちに支えられて政治を行ってきたからです。さらに王は、イギリス社会のあらゆる名誉の源泉でもあるのです。
1500年頃から300年くらいにかけてイギリスは大きく変わり、階級社会にしてネーション。すなわちグレートブリテンイングランドウェールズアイルランドスコットランド、および帝国)になり、国は繁栄していきました。こうした繁栄を極め富が蓄積されていった国において、余裕のある階級が貧者に対して何もしなかったはずはありません。
16世紀以降、イギリス社会は継続的にさまざまな貧民対策を実施しています。最初はキリスト教的な慈善観、すなわちキリスト教徒たる者は貧者の喜捨をして霊的扱いを求めねばならない、とされました。富者が貧者を救えば貧者は祈りでお返ししてくれ、その結果、富者の罪が贖われて煉獄ですごす時間を減らせるのだ、という理屈です。だからこれは相互の義務であり、連帯と社会的調和の思想でもありました。
こうしたキリスト教的善行から、やがてそれは自分の責任ではなく不可抗力で貧窮化した者の法的救済へと移り変わります。1536年、ヘンリ8世のもと、前出のトマス・クロムウェルは「怠惰な貧者は罰して仕事に就かせ、病気や老齢のため働けない貧者のみ救うべきだ」と、新たな法律を作りました。そしてその頃、多くの市民が募金者となって事前運動に参加しました。大半の募金者は2ペンス以下のごく少額を寄付しています。1560〜70年代には、ノリッジエクセターでの試みが、初期イギリスの救民対策を代表するものになりました。エクセターでは週ごとの献金システムが作られて、係員が小教区住民から募金を集めて貧者に再分配していました。
救貧法行政が本格化するのはエリザベス朝で、1598年および1601年に「エリザベス救貧法が発布されたのがきっかけです。この法制により、労働不能貧民については税金で救済するが、働ける貧民は共生してでも仕事に就かせ、貧民の子弟を年季方向に出す務めが、各教区の教区委員および貧民監督官に任されることになりました。
エリートたちは労働を賛美しましたが、それは自分たちが働かないためでもありました。労働者階級の労働あってこそ国は富み栄えるし、ジェントルマン階級も生活必需品を手に入れられる。ですから労働者には、強制してでも働いてもらわないと困るのです。