じじぃの「歴史・思想_379_物語ベルギーの歴史・独立革命と10日間戦争」

A Super Quick History of Belgium

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=R6-eMN5En4g

Crisis in Belgium

Crisis in Belgium: If Flanders Secedes Wallonia Disintegrates

2007-09-09 The Brussels Journal
If Belgium breaks up it is likely that Wallonia will break up as well, with part of it preferring to go to Germany, part of it to the Grand Duchy of Luxemburg (GDL) and part of it to France.
https://www.brusselsjournal.com/node/2433

ベルギー/ベルギーの独立

世界史の窓
●ベルギー王国の独立
ウィーン議定書でオランダ領とされたベルギーはオランダ立憲王国の支配(保護貿易の強制、教育の統制、公用語オランダ語の強制など)に不満を強め、フランスで七月革命が起こると、ベルギー独立運動に飛び火し、オランダ国王ウィレムに対する自治要求となってあらわれた。国王はそれに対し、ブリュッセルに軍隊を派遣、1830年9月、3日間の戦闘となった。市街戦のさなか25日臨時政府を樹立、29日議会は分離を決定した。1830年10月4日に独立を宣言した。
1831年1月、ロンドン会議でベルギーの独立が認められ、ドイツの領邦君主ザクセンコーブルク=ゴータ公レオポルトがレオポルド1世として即位し、立憲君主国として国際的に承認された。
永世中立国
ベルギーに対するフランス、プロイセン(ドイツ)の野望を警戒したイギリスは、1839年にはベルギー永世中立化をねらい、列強との間に条約を締結し、オランダもベルギーを永世中立国として承認した。
なお、これによってフランドル地方は北部がベルギー領(フランデレン)となり、南部がフランス領とされることとなった。ベルギーは以前から高い工業能力を有していたので、独立を契機としてイギリスに続いてベルギーの産業革命を達成した。
https://www.y-history.net/appendix/wh1201-013_1.html

『物語ベルギーの歴史 - ヨーロッパの十字路』

松尾秀哉/著 中公新書 2014年発行

ベルギーの独立――1830~64年 より

国王は誰か

しかし、オランダからの独立はそのまま問題なく達成されたわけではない。オランダはベルギーを手放す気など毛頭なかった。ウィーン体制下のヨーロッパでは、5大国(オーストリア、ロシア、プロイセン、イギリス、フランス)の判断が重要である。ウィレム1世は親戚筋のロシア、プロイセンに援護を求めた。他方、フランスは先進工業地域だったワロンを勢力下に入れようと軍を準備していた。
一触即発の雰囲気のなかで、ベルギー臨時政府の首班であるシャルル・ロジェ(1800~85)、オランダのウィレム1世が調停を求めて、国際会議の招集を5大国に要求した。どちらにも肩入れしていない。中立な立場のイギリスが会議の場所に選ばれ、翌月にはロンドン会議が開催された。ウィレム1世の意に反して、イギリス(パーマストン)、オーストリアメッテルニヒ)、フランスの代表者らがベルギーの独立を承認した。
ロンドン会議で問題となったのは「誰をベルギーの君主とするか」であった。最初に候補に挙がったのは、オランダのウィレム1世の子、ウィレム王子であった。しかし、そもそもベルギーの人々には君主を置くことに対する嫌悪感があった。それがベルギー人ではなく、ついこの間まで自分たちを苦しめてきたオランダであればなおさらである。ベルギーの国民議会はそれを拒絶した。
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1831年6月にロンドン会議はレオポルドを国王候補として推挙し、6月4日にベルギーは国民議会で彼を受け入れることを決定した。そして7月にレオポルドが初代国王として宣誓をした。

10日間戦争

しかしオランダはベルギーへの攻撃をやめなかった。実は、ベルギー国民議会とレオポルド1世は、即位直前にロンドン会議の決定にいくつか不満を申し立てた。第1にオランダの戦費を負担することになったこと、第2にルクセンブルクを奪われることが挙げられる。
ロンドン会議では、ルクセンブルクもベルギーに加わってオランダから独立したいと希望していた。ベルギー側もルクセンブルクをベルギーに加えたいと考えた。しかしその希望はかなわず、ルクセンブルクはオランダの傘下におかれ続けた。ベルギーからすると、戦後賠償金を負担させられて、そのうえルクセンブルクを手放すことになってはたまらない。
事態の収拾を急ぐ5大国は、ルクセンブルクの一部をベルギーに渡し、戦費負担を減額することにした。申し立てが受け入れられたベルギーは、盛大な宣誓式を行い、大いに盛り上がった。
一方、議定書の最終案を見たウィレム1世は激怒した。明らかに最終案は、オランダにとって不利な条件へ変更されていた、ベルギーに対する債権は減らされ、領土も減らされた。
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1831年1月8日にオランダ軍はベルギーに侵攻し、ハッセルト周辺でベルギー軍を打ち破った。レオポルド1世の要請によってフランス、イギリスが救援に向かい、これによりオランダ軍は撤退した。この戦いは10日間戦争と言われている。
実は10日間戦争は、それ自体が問題でななく、当時のウィーン体制のながで、その後もフランス軍がベルギーに駐留し続けたこと(これはレオポルド1世の要請による)のほうが、国際関係の懸案となったようである。結局フランス軍は、翌9月に撤退の意志を示し、領土および戦費負担の問題はオランダに譲歩するかたちで決着し、ひとまず落ち着いた。しかし約1ヵ月の間、ヨーロッパそしてウィーン体制派は、ベルギーの独立をめぐって大いに揺れたのである。
最終的にオランダは領土を戻し、戦費をベルギーに追わせることでベルギーの独立を容認し、ロンドン条約が結ばれたのは1839年のことであった。独立革命と10日間戦争から8年もの時間を要した。