じじぃの「歴史・思想_373_物語オランダの歴史・独立戦争」

Willem van Oranje. William of Orange. Wayang.

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=zuvOis9kcv0

William of Orange

The Story of William of Orange (Illustrated) (English Edition) Kindle

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William of Orange, once a Catholic, converted to the Protestant cause and eventually rose to lead the Protestant rebellion against Spanish rule in Netherlands.
He ultimately sacrificed his life, his wealth, and his family for the cause of religious toleration and inspired the Netherlands to revolt against Spanish rule.

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オランダ独立戦争 コトバンク より

八十年戦争、ネーデルラント独立戦争とも呼ばれる。 1568~1648年にかけてスペイン領ネーデルラントが本国に抗して争い、ホラント、ゼーラントユトレヒトなど北部7州が独立して、オランダ (ネーデルラント) 連邦共和国を建国するにいたった戦争。
中世以来ネーデルラントは毛織物工業と中継貿易とによって繁栄し、諸都市は広範な自治権をもち、自由の気風が盛んで、宗教改革以後カルビニズムが市民階級の間に普及していた。 1556年スペイン王位についたフェリペ2世はカトリシズムの守護者をもって任じ、プロテスタントに激しい迫害を加え、また都市に重税を課し、商業を制限し、自治権を奪って財政収入の増大をはかるなど、中央集権的支配を強化した。このような圧制に対し、カトリシズムを奉じる市民階級をさえ含めて、ネーデルラントのすべての住民が反抗し、多数の中小貴族の指導のもとに 66年広範な民衆運動が開始された。翌 67年ネーデルラント総督として来任したアルバ公は、プロテスタントに対する徹底的な弾圧を行い、「血の評議会」による裁判の犠牲となるものは、指導者エフモント伯をはじめとして 8000人をこえた。またアルバ公は上流貴族と富裕な市民階級の財産を没収し、貿易に重税を課したため、商工業活動は麻痺し、数千人が職を失い、多くのカルビニストや富裕な市民は国外に亡命した。
海外に亡命したカルビニストらは貴族の指導により「ゼーゴイセン (海乞食) 」と呼ばれる軍事組織をつくり、72年以後ゼーラント、ホラント両州の諸都市を占拠し、ドイツに亡命したオランニェ公ウィレム1世 (沈黙公)を統領として迎えた。 76年ウィレムの努力で「ヘントの平和」を実現し、全ネーデルラントの平和と統一が実現した。

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『物語 オランダの歴史』

桜田美津夫/著 中公新書 2017年発行

はじめに より

2004年10月から11月にかけて、オランダで放送された「最も偉大なオランダ人」(De Grootste Netherlander)と題するテレビ・シリーズの最終回で、数十万人の視聴者の投票をもとに最終的に選び出されたオランダ史上の偉人ベストテンは以下のようなものであった。
①ピム・フォルタイン

②オランイェ公ウィレム

③ウィレム・ドレース
④アントニ・ファン・レーウェンフック
⑤デシデリウス・エラスムス
ヨハン・クライフ
⑦ミヒール・デ・ライテル
アンネ・フランク
レンブラント・ファン・レイン
フィンセント・ファン・ゴッホ
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前者に含まれるのが、オランダ人気質を語る際必ず引き合いに出される人文主義エラスムス独立戦争の指導者オランイェ公、17世紀の海軍提督デ・ライテル、微生物研究者のファン・レーウェンフック、そして多芸多才の画家レンブラントである。

反スペインと低地諸州の結集――16世紀後半 より

16世紀中頃、今日のベルギー、オランダ、ルクセンブルクを合わせた地域にほぼ相当する「低地諸州」(Nederlanden)を支配下に置いていたのはハプスブルク家であった。この地域は、フランスのヴァロワ家の傍系であるブルゴーニュ家による支配の時代(1363~1477年)以降、徐々に一体化が進んでいた。そして1543年に低地諸州の統一をほぼ完成させたのが、今日のベルギーのヘント(ガン)市で生まれたハプスブルク家神聖ローマ皇帝カール5世で、スペイン王としてはカルロス1世を名乗った。
カール5世は低地諸州の統治者ではあったが、ブラーバンド公、ホラント伯といった全部で「17」余りの個別の称号を併せ持っていたにすぎない。低地諸州の「州」とは、あくまでも独立の邦(くに)だったのであり、カール5世はそれぞれの州(邦)の君主だった。
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1559年6月末頃、オランイェ公ウィレムが、カトー・カンブレジ条約(1559年4月スペインのフェリペ2世とフランスのアンリ2世との間に結ばれた、イタリア領有に関する和平条約)を確かなものにすべく、ハプスブルク側の外交視察団の一員としてフランスのパリに赴いたとき、和平条約を祝う催しの1つとして、首都郊外のヴァンセンヌの森で一向うちsろって狩猟が行なわれた。ところがオランイェ公は偶然、他の要人たちとはぐれて、フランス国王アンリ2世と2人きりになった。伝統的な歴史解釈では、このとき同王が語った言葉が、オランイェ公にスペイン王権に対する反抗を決意させたとされる。その様子をオランイェ公は、1581年に公刊された自己弁明書のなかで、自ら次のように語っている。
  私はかつてフランスにいたとき、アルバ公[フェリーペの側近]がフランスや低地諸州をはじめ全キリスト教世界の新教徒を根絶するための手段についていかなる交渉を進めているが、国王アンリ自身の口から聞いたのである。そしれ王は――王はわたしが和平交渉の代表者の一人である以上、こうした重要問題についてもすでに承知しているものと早合点していた―― 私にスペイン王およびアルバ公の助言と意図のあらましを語った。そこで私は、王がその話を途中でやめてしまわないように、私にはまだ聞かされていない部分もあるのだがというふうに答えた。これに誘われた王は、さらに詳しい話をしてくれた。こうして私は、異端審問官による異端弾圧計画の全貌をすっかり聞き出すことができたのである。[中略]私は告白する。このスペインの害虫をこの国[低地諸州]から駆除するために最善を尽くすことを本気で決意したのはそのときであったと。
                   ( J.E Verlaan, Apologie)
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中央派(カルヴィン派とカトリック派間)の分裂は必至となった。スペイン宮廷内の動静を知りうる立場にいたオランイェ公は、これ以上危険を冒すことを避け、翌1567年4月下旬に低地諸州を去り、5月末には生まれ故郷のドイツ、ディレンブルグに帰り着く。他方エヒュモント伯やホルネ伯は、すでにマルハレータの政府と妥協していた。こうして、1566年に始まった騒乱は、翌67年春までには、執政マルハレータの政府だけの力で沈静化されたのである。
それでもフェリーペ2世は、低地諸州に懲罰軍を送ることを決定する。司令官にはスペイン宮廷内の武断派を代表するアルバ公を当てた。「剛直公」の異名を持つ猛将である。
アルバ公と約1万人の軍隊は1567年8月22日、ブリュッセルに到着する。早くも同月中にマルハレータが自ら執政職を辞したので、アルバ公が後を継いだ。王の血族でない異例の執政の誕生である。スペイン軍はその後も増強され、6万7000人ほどに膨れ上がる。
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1572年、オランイェ公は新たに低地諸州への同時侵攻作戦を計画した。その際、海側から脅威を与えてアルバ公を牽制する役割を与えられたのが海乞食党である。彼らは当時イングランド南岸の諸港を根拠地にしていたが、取り締まりを迫るアルバ公に配慮したエリザベス女王によって退去を命じられた。こうして26隻の船舶と約1100人の乗員からなる海乞食党船団は、オランイェ公の出撃準備が整う以前に海上に放り出される。
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結局、フランス王弟アンジュ―公を新しい君主に迎えるという実験は、アンジュ―公の力量不足により大失敗に終わる。
一方、もともとアンジュ―公を疑っていたホラント州とゼーラント州は、オランイェ公自身をフェリーペ2世の後任に据えようと画策する。渋り続けたオランイェ公も最後には受け入れに傾いていた。だが、1584年夏、オランイェ公は51歳で凶弾に倒れてしまう。
当時オランイェ公は、デルフトの元女子修道院を改装したプリンセンホフで暮らしていた。その近侍のなかに、カルヴィン派を装いまぎれ込んでいた者がいた。狂信的カトリックのバルタザール・ジェラールである。彼は、外交使節団に加わってフランスに向かう前の7月8日、オランイェ公の宮廷付き牧師に衣服がみすぼらしくて困っていると訴えて、幾ばくかの金銭をせしめた。翌日、彼はその金で、ある下士官から2挺の拳銃と数発の弾を購入する。
7月10日、プリンセンホフに来て機会をうかがっていたジェラールは、オランイェ公が1階で昼食を終え、2階の執務室に戻ろうとしたところを、外套の下に隠し持っていた銃で至近距離から狙撃した。3発中2発が同公の体を貫通し、弾丸は後ろの壁にも傷跡を残した。慌ててかけつけた身内に見守られながら、オランイェ公はすぐに息を引き取ったという。