じじぃの「歴史・思想_60_オーストリアの歴史・ウィーン・合邦のトラウマ」

日本と韓国、ドイツとオーストリアの関係の違いについて教えてください。 Yahoo!知恵袋

回答
指導者と民族性の問題だと思う。
日本の統治が効かなくなり、大韓民国が立国したときの指導者は李承晩です。
約35年間の日本統治下で韓国国民はかなり日本人化が進んでいたみたいです。それを気に入らなかった李承晩は国民に反日感情を植え付け、韓国人化を試みました。
日本を敵にすることで国民の感情をコントロールし、今のようにDNAに刻まれるまでに至ったわけです。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11191177766

『物語 オーストリアの歴史-中欧「いにしえの大国」の千年』

山之内克子/著 中公新書 2019年発行

ヒトラーリンツ より

1938年3月、ドイツへの併合か、国家としての独立かを問う国民投票の計画を中止させ、最後までナチス支配に抵抗した首相クルト・シュシュニックを退陣に追い込んだアドルフ・ヒトラーは、ただちにオーストリアに対する進軍を開始した。ミュンヘンから国境に向かった隊列はイン河を渡り、各地で住民の大歓声を浴びながら首都を目指す。この無抵抗のオーストリア信仰作戦において、リンツはまさしく、ナチスドイツ軍を迎えた最初の都市となったのである。

1938年3月15日、英雄広場――内側から来た侵入者 より

「帝都フォーラム」が鮮やかに象徴した王朝によるゆるぎない絶対支配の理想は、政治のあり方としてすでに時代に逆行したものになっていった。とりわけ、民族も言語も異なる諸地域を1人の君主のもとに治めようとするハプスブルグ家の意図は、時とともに各地で大きな齟齬と摩擦を生むようになった。そして、その不協和音を激しい断末魔へと変えたのが、1914年のサラエボ事件にほかならない。ハプスブルグ君主国は第一次世界大戦を引き起こし、そして4年後には地図上から消滅することになる。
それに伴なって、ウィーンは、輝かしい君主国の帝都から新しい小共和国の首都へと、その役割を縮小させた。数世紀にわたり、政治、経済、文化、芸術における唯一無二の中心地だった都市は、いまや、社会不安に苛まれた新生国家の、いわば「形ばかりの首都」になり下がった。しかも、保守的な傾向が強いオーストリア国内において、左派の社会民主党が圧倒的な支持を得て政治を牛耳るこの首都は、他州の人びとの憎悪を掻き立てずにはいなかった。さらに、1921年、国内の人口バランスを主たる理由として、ウィーンがニーダーエスライヒ州から切り離され、全国で唯一、一都市でありながら独自の州政府を構成するようになったとき、この「嫌悪され、疎外された首都」の図式は、いよいよ決定的になったのだった。
しだいに悪化する経済状況と長引く物価高、民族国家として独立した周辺諸国の共産化、そして、互いに対立を深め、ついに市街戦をも引き起こした社会民主党キリスト教社会党の抗争。未来が見えない状況のなかで、人びとは、オーストリアという国のアイデンティティそのものを自問するようになっていた。オーストリアの存在意義とは何か。ドイツ人の国でありながら、ドイツであってはならないのか。
その問い掛けに、あまりにも暴力的な解答の可能性を突きつけたのが、アドルフ・ヒトラーであった。第一次世界大戦後のサン・ジェルマン条約はドイツとオーストリアの合邦を禁じていたが、ドイツへの帰属意識は時とともに国民の間で強い思いへと変わっていた。そして、こうした世情に乗じてナチスドイツが国際条約を破ってオーストリア併合に向けて動き出したとき、ドイツに心を向けた多くのオーストリア人は、これを心底から歓迎したのである。
オーストリア制圧作戦を発動させたアドルフ・ヒトラーは、1938年3月13日、いよいよ首都ウィーンに入城した。その2日後、かつて「帝室フォーラム」の中心として構想された王宮前の英雄広場で彼が行なった「オーストリア合邦宣言」演説の歴史的写真と映像は、当時の人びとの精神状態をも明快に映し出すものである。「私自身の故郷であるオーストリアをドイツに合邦」することを強い口調で宣したヒトラーの前を、リングシュトラーセの建造物の優雅なシルエットを背景に、魅入られた様子の数万人の市民が立錐の余地がないほどに埋めつくしている。その演説の妙は、これほどまでに人の心を強く捉えものであったのだろうか。
ヒトラー自身が演説で明言したように、彼はまさしくオーストリアに生を享けた同国人であった。1907年には芸術アカデミーを受験するためにウィーンを訪れ、不合格通知を受け取ったのち、失意のうちにしばらくこの街をさまよっている。こうした経緯からも、ヒトラーにとって「合邦宣言」は首都への凱旋を意味していたに違いない。
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ヒトラーという「国内から来た侵略者」による侵攻を通じて、多様な民族と言語、文化が交叉する「境界の街」としてのウィーンの歴史に、ひとまず長い休止符が打たれることになった。彼によってもたらされた悪夢のような十数年間を経て、冷戦からベルリンの壁崩壊、難民の時代へと、まったく新しい展開を見せる現代史の流れのなかで、ウィーンがふたたび、あまたの国家と民族、言語と文化をつなぐ結節点としての役割を果たすようになるまでには、この「合邦」のトラウマを克服するための長い時間と努力が必要となったのである。