じじぃの「カオス・地球_162_共感革命・第3章・森を出た人間」

1. Prehistoric Family Life - OUT OF THE CRADLE [人類誕生CG] / NHK Documentary

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=vEpEZjxmmuw

Ancient human out of forest


Ancient footprints in Crete challenge theory of human evolution - but what actually made them?

September 4, 2017 theconversation.com
●Gorilla prints?
So what or who made the Trachilos prints? They are certainly convincing as real footprints, from the few pictures provided in the paper.
The age estimate of 5.7m years also seems correct. The prints do have a narrow heel compared to our general idea of what human footprints look like, as the authors note. But that could easily be matched by the shape of human footprints walking in wet mud, such as in an estuary - which may have been the case. They have a big toe placed quite close to the others, like our own, but so do the feet of gorillas.
https://theconversation.com/ancient-footprints-in-crete-challenge-theory-of-human-evolution-but-what-actually-made-them-83412

河出新書 共感革命――社交する人類の進化と未来

【目次】
序章 「共感革命」とはなにか――「言葉」のまえに「音楽」があった
第1章 「社交」する人類――踊る身体、歌うコミュニケーション
第2章 「神殿」から始まった定住――死者を悼む心

第3章 人類は森の生活を忘れない――狩猟採集民という本能

第4章 弱い種族は集団を選択した――生存戦略としての家族システム
第5章 「戦争」はなぜ生まれたか――人類進化における変異現象
第6章 「棲み分け」と多様性――今西錦司西田幾多郎、平和への哲学
第7章 「共同体」の虚構をつくり直す――自然とつながる身体の回復
終章 人類の未来、新しい物語の始まり――「第二の遊動」時代

                      • -

『共感革命』

山極壽一/著 河出新書 2023年発行
人類は約700万年前にチンパンジーとの共通祖先から分かれ、独自の進化を遂げた。やがて言葉を獲得したことによって「認知革命」が起きたとされている。しかし、実はその前に、もっと大きな革命があった。それが「共感革命」だ。

第3章 人類は森の生活を忘れない――狩猟採集民という本能 より

ネアンデルタール人はなぜ滅びたのか

熱帯雨林から移動を始めた頃の人類の行動範囲は、今のグローバルな時代と比べ、まだ広くはなかった。だが狭い場所で皆が交流し合っていたことは確かだ。

さらにホモ・サピエンスが登場して言葉が生まれ、交流は深まったはずだ。
ネアンデルタール人は3万年前までヨーロッパで生き延びていたが、ヨーロッパに進出したホモ・サピエンスによって駆逐された。駆逐といっても、戦争によって滅ぼされたわけではない。1番大きな原因はホモ・サピエンスが喋るような言葉をネアンデルタール人が喋れなかったことだ。

会話ができたことによって一体どのような違いが生まれたのか。恐らく自分が経験していないことを他人の言葉によって伝えられるネットワークができたことが大きかったのだろう。会話によって、自分では見ていないものをあたかも見たかのように実感できる。そうやって人と人、やがては集団同士がつながれるようになった。

また言葉によって計画性も生まれた。言葉がないと計画は立てられない。例えば、数日のうちにこの山の上で落ち合おう、というような約束は、言葉を持っていない時代にはできなかった。

ネアンデルタール人は、おそらく10数人から30人程度の小集団で暮らしていたのではないか。閉鎖的で、集団間の交流もなかったと思われる。しかしホモ・サピエンスは頻繁に交流した。これらによって、ネアンデルタール人が徐々に劣勢になっていった。

狩猟効率も随分とちがった。オーロックスという今は絶滅してしまった野生の牛を崖まで追い込んで、落下させる集団狩猟がホモ・サピエンスには可能だったが、ネアンデルタール人は計画もなしに頑丈な身体で立ち向かうしかなく、狩りのたびに犠牲が発生しやすかった。

人口増加率も違ったはずだ。ヨーロッパの冬は厳しい。冬場を生き延びるためには食料を確保しなければならないが、簡単なことではない。幼児死亡率も高まり、流産も増える。こうした差が合わされば、結果的に大きな差になって現れてくる。1万年の間にネアンデルタール人がいた場所は、すべてホモ・サピエンスによって占拠されてしまった。1万年と聞くと長いように感じるが、徐々にネアンデルタール人は追いつめられていき、ついにはポルトガルの突端の海辺で最期の1人が死んだといわれている。

所有のない、平等な遊動生活

もう1つ、類人猿と人間の違いは、手が自由になったことである。

直立二足歩行は敏捷性(びんしょうせい)に劣るし、木登りにも適さない。足で地面を踏んで歩くから、足の形が変わり、ゴリラやチンパンジーのように足で木を掴めなくなった。人類が速力や樹上生活を犠牲にしてまで、直立二足歩行を選んだのは、先に紹介したように長距離を歩くためにエネルギー効率に加え、手の活用法を発見したからだ。

自由になった手で何をしたのかといえば、食物を運んだのである。その頃の人類は、まだ道具をつくっていない。しかもサバンナには木が少ない。地上の大型肉食動物に襲われないよう、身重な女性や小さな子どもを安全な場所に隠し、屈強な者が遠くへ出かけて行って食物を探して採集する。それを手で持って、安全な場所に隠れている仲間のところへ持って帰り、分配して一緒に食べたに違いない。これが人間的な食事を伴う遊動生活の始まりである。定住はせず、安全な場所を転々としながら食物を探して歩くスタイルを長く続けたと考えれている。

遊動生活の利点は先にも書いた通り所有という概念が必要なかったことだが、加えて、何かトラブルがあった際にも有効だ。定住生活の場合は、トラブルを起こした双方が共存できるようなルールを考えなければならなくなる。しかし遊動生活では双方が離れてしまえば解決するので、共存するための細かなルールを考案する必要がない。

狩猟採集民には権威者もリーダーもいない。形式上のリーダーは置いても、生活は対等に運営されるのだ。

人類はこの対等かつ平等な遊動生活を、700万年近く続けてきた。そのマインドは、実は現代に生きる我々にも備わっている。数人が集まって「さあ、一緒に食事をしよう」となったとき、食卓の上にある食物を1人で独占しようと考える人は現代でもいないだろう。例えば、ホールケーキを切ってみんなで分配しようとする際は等分に切ろうとするはずだ。

食事における分配と共食は、人間関係の最も根本的なことなので、私たちはこうした行為を当たり前のようにやっている。鍋やすき焼きを囲んでも上手に分配、共食している。今でも遊動生活時代の精神は消えていないのである。

このように、徹底的に平等だった人類だが、定住を初めてから土地に固執するようになった。また所有の有無が人の価値を決める指標になってしまった。人類にとって本来持ち合わせていなかった感覚が、現代の人間を支配するようになったのだ。

しかし、現代人の所有と土地に対する執着は、少しずつ薄れ始めているのではないか。

ヴァーチャルな縁で動く時代

今後、「第2の遊動」時代が到来すると私は考えている。

皮肉に感じるかもしれないが、人類に文明生活をもたらした科学技術のさらなる進展が、、遊動の感覚や生活を甦(よみがえ)らせてくれているのだ。

今、交通手段の発展による、安価にいくらでも遠くへ行けるようになった。例えば東京から沖縄まで飛行機の往復が数千円で可能なこともある。グローバルな時代とは誰もが自由に移動できる時代で、国境を越えることにも昔ほどの制約はなくなった。入国にビザが要らない国もたくさんある。移動が自由になったことで個人を縛る縁がきわめて薄くなった。
    ・
人類は生活を農耕牧畜に切り替え、定住生活をスタートしてから、定住先で自分の所有物を貯めることによって、自分の価値を高めていった。その生活が1万年近く続いていた。
高価な首飾りをしたり、高級な外車を乗りまわしたり、高価なブランドものの服を着たり、高級レストランで食事をしたりする、そういう行為が社会的地位を表すと考えられていた。

だが今は、新型コロナウイルスによるパンデミックというインパクトのある体験も経て、そのような感覚が急速に低下したように感じる。装飾品で自分を飾ることが自分の社会的地位を表すものではなくなりつつある。

今やFacebookInstagramに載せる情報は、自分は何をした、何を見た、何を経験した、という行為そのものなのである。それにみんなが「いいね」をする時代で、所有物がその人の価値を表すのではなく、その人の行為が価値を表す時代になってきた。

これが「第2の遊動」時代の変化なのだ。かつてのように、移動が当たり前で、所有や縄張りという概念がなかった時代に、現代人は非常に近づいてきている。