じじぃの「科学・地球_405_人類の起源・アジア・古代中国人」

人類の生息域拡大


平成7年版 図で見る環境白書

第1章 文明の発展と地球環境問題

人類の一生物としての生息密度は、1.4人/平方キロメートルと予測されますが、実際には39人/平方キロメートルと20倍以上の数値となっています。また世界中の地域に生存し、他の生物では見られない広範な生息域を有しています。
https://www.env.go.jp/policy/hakusyo/zu/eav24/eav240000000000.html

『人類の起源 古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」』

篠田謙一/著 中公新書 2022年発行

第3章 「人類揺籃の地」アフリカ――初期サピエンス集団の形成と拡散 より

出アフリカ

ゲノム解析から、数十万年以上も前のホモ・サピエンスネアンデルタール人の交雑が明らかになっていますので、ホモ・サピエンスがアフリカで誕生したのだとしても、そのころにはすでに出アフリカを成し遂げていた可能性も低くありません。この意味での「出アフリカ」の舞台となるのは、アフリカと陸続きのレバントと呼ばれる東部地中海沿岸地方だと考えられています。特にエジプトと接する現在のイスラエルでは、ネアンデルタール人ホモ・サピエンス双方の化石が出土しており、ホモ・サピエンスの出アフリカを考える上で重要な証拠を提供しています。
ヘブライ語で「洞窟群の渓谷」を意味する、イスラエルのカルメル山麓にあるナハル・メアロット渓谷には、タブーン洞窟とスフール洞窟という、ネアンデルタール人ホモ・サピエンスの化石が出土している洞窟があります。この地域でもっとも古いネアンデルタール人骨は、タブーン洞窟から出土したもので、17万~10万年前のものとされています。アムッド洞窟やケバラ洞窟など、イスラエルの他の地域で発見されたネアンデルタール人骨はいずれも6万年ほど前のものと考えられており、タブーン洞窟のネアンデルタール人とのあいだには時間的に大きなギャップがあります。
一方、スフール洞窟から発見されているホモ・サピエンスの化石は13万~10万年前と推定されており、タブーン洞窟のネアンデルタール人よりは新しい可能性があります。それでも、他のネアンデルタール人よりは古くなります。エズレル平野にあるカフゼ洞窟から出土したホモ・サピエンスは9万年ほど前のものとされ、これも新旧のネアンデルタール人の生息時期のあいだに挟まっています。

第5章 アジア集団の成立――極東への「グレート・ジャーニー」 より

中国の南北地域集団

2020年以降、東アジアでも1万年前以降の完新世に属する古代人のゲノムが数多く解析されるようになり、東アジアの集団の成立を古代ゲノムデータによって語ることができるようになっています。その中で、最初に明らかになったのは、中国の南北地域集団の遺伝的な相違でした。
一般に中国人は漢民族としてまとめられますが、現在でも中国の南と北では言葉も違いますし、集団の遺伝的な違いが認められます。このような違いは過去をさかのぼるほど大きくなるということが、古代ゲノム解析の結果、わかっています。
解析されたのは黄河流域の古人骨と、南の福建省から出土した9500~300年前の人骨24体で、1万年前から6000年前までは両者が遺伝的に区別しうる集団であったものが、時とともに混合していった様子が明らかとなっています。
これはもともと中国大陸には南北ふたつの人口拡散のセンターがあり、それが1万年前以降の農耕の拡散によって徐々に拡大することで現在の状況が生まれたということを意味しています。
現代の中国人の祖先の大部分は、この北のグループにつながっており、さまざまな割合で南のゲノムを取り込んでいます。つまり、時代をさかのぼると、黄河流域集団は現在の北方集団により類似するようになり、南の集団も、東南アジアよりの地域の現代人のゲノムに近くなります。
両者の混合がいつ始まったかは、解析できた個数が少ないために定かではありませんが、5000~4000年前には北方集団の拡大が始まったと推定されます。もともとは多様な集団がいくつも集まっていた東アジアでは、この時代から地域による遺伝的な多様性を減少させる方向に向かっているのです。
東アジアの農耕民の拡散が、周辺の狩猟採集民を巻き込む形で起こったこともわかっています。ヨーロッパなどでは農耕民が狩猟採集民を駆逐する形で拡大した地域もありますが、東アジアではそのような状況はなかったようです。

南部の古代集団は、遺伝的には南太平洋に拡散したオーストロネシア語族の人びとの祖先であることも確認されました。

シノ・チベット語族の起源

シノ・チベット語族に属する集団は、5000年ほど前の黄河流域のキビ栽培をしていた農耕民に起源があることも明らかになりました。
そこから南のチベット高原へと拡大したグループによってチベットブータン語が生み出され、中原(ちゅうげん)に向けて南と東、そしてさらに東の海岸に拡大した集団の中から漢民族の言葉である中国語が生まれたと考えられています。つまり北方にはふたつの雑穀農耕のセンターがあり、それぞれの農耕民が拡散することで多様な言語集団を生み出したことになります。
これに対し、南のセンターは稲作農耕を主体としたものでした。日本列島との関係は不明ですが、稲作農耕民の南方への進出は、オーストロネシアやタイーカダイといった語族の分布と関係することがわかっています。
東アジアの大陸部では、北方のふたつの雑穀農耕民と南方の稲作農耕民が拡大し、それぞれの混合が続くことで現代人集団が形成されたと考えられます。一方、東南アジアや日本列島などの東アジアの沿岸部では、初期段階で定着した人びとと農耕民の混合によって、現代に続く集団が形成されたことになります。