じじぃの「科学・地球_403_人類の起源・ヨーロッパ・ポントス・カスピ海草原」

What Happened To Britain's Last Hunter-Gatherers? Prehistoric Europe Documentary

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=vTyojqbW6lM

ポントス・カスピ海草原 (現・ウクライナ周辺)


ポントス・カスピ海草原

ウィキペディアWikipedia) より
ポントス・カスピ海草原(Pontic-Caspian steppe)は、中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までのステップ地帯黒海北岸からカスピ海北岸にかけて広がり、東ではカザフステップへと続く。ユーラシア・ステップの一部を成す。
ポントス・カスピ海草原の面積は994,000平方キロメートル(384,000平方マイル)で、ブルガリア北東部のドブルジャからルーマニア南東部、モルドバ南部、ウクライナ、ロシア、カザフスタン北西部を経てウラル山脈まで広がっている。
ポントス・カスピ海草原は、北は東ヨーロッパの森林草原に囲まれており、南側ではクリミア半島コーカサス山脈西部にまたがる「クリミア亜地中海性森林群」が草原の南端となっているのを除いて、黒海まで伸びている。草原はロシアのダゲスタン地方のカスピ海西岸まで広がっているが、カスピ海北西岸・北岸には乾燥したカスピ海低地砂漠が広がっている。東ではカザフ草原がポントス・カスピ海草原を囲んでいる。
ポントス・カスピ海草原は、中生代新生代ウラル山脈の南と東に延び、今日の西シベリア平原の大部分を覆っていたパラテーチス海(テチス海から分離して誕生した海)の延長線上にあったツルガイ海(Turgai Sea)の跡である。

                • -

『人類の起源 古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」』

篠田謙一/著 中公新書 2022年発行

第3章 「人類揺籃の地」アフリカ――初期サピエンス集団の形成と拡散 より

出アフリカ

ゲノム解析から、数十万年以上も前のホモ・サピエンスネアンデルタール人の交雑が明らかになっていますので、ホモ・サピエンスがアフリカで誕生したのだとしても、そのころにはすでに出アフリカを成し遂げていた可能性も低くありません。この意味での「出アフリカ」の舞台となるのは、アフリカと陸続きのレバントと呼ばれる東部地中海沿岸地方だと考えられています。特にエジプトと接する現在のイスラエルでは、ネアンデルタール人ホモ・サピエンス双方の化石が出土しており、ホモ・サピエンスの出アフリカを考える上で重要な証拠を提供しています。
ヘブライ語で「洞窟群の渓谷」を意味する、イスラエルのカルメル山麓にあるナハル・メアロット渓谷には、タブーン洞窟とスフール洞窟という、ネアンデルタール人ホモ・サピエンスの化石が出土している洞窟があります。この地域でもっとも古いネアンデルタール人骨は、タブーン洞窟から出土したもので、17万~10万年前のものとされています。アムッド洞窟やケバラ洞窟など、イスラエルの他の地域で発見されたネアンデルタール人骨はいずれも6万年ほど前のものと考えられており、タブーン洞窟のネアンデルタール人とのあいだには時間的に大きなギャップがあります。
一方、スフール洞窟から発見されているホモ・サピエンスの化石は13万~10万年前と推定されており、タブーン洞窟のネアンデルタール人よりは新しい可能性があります。それでも、他のネアンデルタール人よりは古くなります。エズレル平野にあるカフゼ洞窟から出土したホモ・サピエンスは9万年ほど前のものとされ、これも新旧のネアンデルタール人の生息時期のあいだに挟まっています。

第4章 ヨーロッパへの進出――「ユーラシア基層集団」の東西分岐 より

農耕の開始とヒトの移動

ヨーロッパでは、旧石器時代の始まりと終わりごろ、すなわち4万年前と1万4000年前ごろに中東から狩猟採集民が進出し、独自の遺伝的な構成を持つ集団として成立したことが、古代ゲノムの解析によって明らかになっています。その後、新石器時代になってヨーロッパでは農耕が始まり、第2の移住の波が訪れます。
ヨーロッパの初期農耕に備わっているエンマコムギや大麦、ヒツジやヤギといった家畜は新石器時代の始まりのころ中東から持ち込まれたものだと考えられています。したがって農耕は中東からもたらされたことになりますが、やって来た農耕民がその後のヨーロッパの人口にどの程度の影響を与えたのかについては、ふたつの仮説がありました。
ひとつは農耕民によってヨーロッパの人口が置き換ええられてしまったと考えるもの、他方は在来の狩猟採集民が農耕文化を受け入れたと仮定して、農耕民の遺伝的な影響はごくわずかであったと捉えるものです。この極端なふたつの仮説を正確に評価するとことは困難でしたが、古代人のゲノム解析がそれを可能にしました。
解析の結果、農耕の受け入れに際して地域集団の完全な置き換えは起きなかったものの、8500年前のヨーロッパ南西部では、中石器時代の最終狩猟民の子孫が、北西アナトリアからやってきた農耕民によって周辺に押しやられたことがわかっています。これを皮切りに、イベリア半島には7300年前、アイルランドには5100年前、スカンジナビア半島には4900年前に農耕が普及し、最終的にはレバントやイラン北部からやって来た農耕民がヨーロッパ全域に拡散することになりました。
アナトリアから来た農耕民の持つゲノムは在来の狩猟採集民とは大きく異なっており、その違いは現在のヨーロッパ人と東アジア人の違いくらいだと推定されています。ヨーロッパ人というと、旧石器時代人から現代人まで同じような姿形をしていたと思いがちですが、実際の旧石器時代の人たちはまったく異なる容姿をしていたことがわかっています。
西アジアで農耕が始まるのは1万1000年前とされています。農耕開始期の中東の古人骨から得られたゲノムデータから、もともと中東の農耕民は単一の集団ではなかったことがわかっています。彼らは3500年後にヨーロッパに進出することになりますが、そのあいだにも遺伝的な変遷を遂げました。そもそも1万4000年前以降にヨーロッパに侵入した狩猟採集民も、中東集団の遺伝子を引き継いでいるのですから、ヨーロッパの在来集団と中東の農耕民の遺伝子の違いはそれほど大きくないと予想されていました。しかし、解析の結果は違いました。その背景には、中東集団の遺伝的な多様性が関係しています。

ポントス・カスピ海草原

ポントス・カスピ海草原をご存知でしょうか。この日本ではあまり一般にはなじみのない名前の地域が、現代に続くヨーロッパ人の遺伝的な特徴をつくり上げる重要な源郷の地であったことが古代ゲノムの解析で突き止められました(図.画像参照)。

この地域は、中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部まで続くステップ地帯です。およそ4900~4500年前に、その中のハンガリーからアルタイ山脈のあいだに広がる地域で、ヤムナヤと呼ばれる牧畜を主体とする集団の文化が生まれました。その中心は現在のウクライナになりますが、彼らは馬や車輪を利用することで瞬く間に広範な地域への拡散を成し遂げ、ヨーロッパの農耕社会の遺伝的な構成を大きく変えることになったのです。たとえば彼らの流入後、ドイツの農民の遺伝子の4分の3がヤムナヤ由来の遺伝子に置き換わったことがわかっています。
彼らのもたらした文化はヨーロッパでは縄目文土器文化と呼ばれ、北東ヨーロッパや中部ヨーロッパの北部に分布しています。一方、ほぼ同時期の西ヨーロッパには鐘状ビーカー文化が広がっており、両者の関係についても議論がありました。鐘状ビーカー文化の担い手のゲノムを調べると、ヨーロッパの中央部やイギリスの集団はヤムナヤ文化の系統を引くものだったのに対し、イベリア半島では在来集団のものであることもわかりました。
このように、ヤムナヤの遺伝子の流入にも地域差がありますが、基本的には北方ほど影響が大きかったようです。イベリア半島では集団の遺伝子構造を一変するような流入はなかったようですが、イギリスでは、有名なストーンヘンジをつくった在来集団の遺伝子がこの直後に一挙に減少します。現代のイギリス人に伝わる彼らの遺伝子は1割程度で、残りはヤムナヤに由来する鐘状ビーカー文化の人びとのものになっています。
現代に続くヨーロッパ人の地域差は、基本的にはこの青銅器時代における農耕民とヤムナヤ文化人との混合のしかたの違いに起因すると考えられています。