じじぃの「科学・地球_404_人類の起源・アジア・縄文人」

DNAからみた縄文人 神澤秀明 博士(日本 國立科學博物館)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=05GzPwGZpZM

推定されるホモ・サピエンスの世界拡散ルート

 (海部 2020)

なぜ1万年も平和が続いた? 今注目される「縄文時代」のナゾ

Honda Kids
Q.縄文時代って学校も会社もなかったんだよね。みんな毎日何していたの?
A.狩かりに行ったり、海や川に魚を獲とりに行ったり、木の実をひろいに行ったり、食料の加工をしたり、やじりや編あみカゴを作ったり……いろんなことをしていたよ。
https://www.honda.co.jp/kids/explore/jomon/

『人類の起源 古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」』

篠田謙一/著 中公新書 2022年発行

第3章 「人類揺籃の地」アフリカ――初期サピエンス集団の形成と拡散 より

出アフリカ

ゲノム解析から、数十万年以上も前のホモ・サピエンスネアンデルタール人の交雑が明らかになっていますので、ホモ・サピエンスがアフリカで誕生したのだとしても、そのころにはすでに出アフリカを成し遂げていた可能性も低くありません。この意味での「出アフリカ」の舞台となるのは、アフリカと陸続きのレバントと呼ばれる東部地中海沿岸地方だと考えられています。特にエジプトと接する現在のイスラエルでは、ネアンデルタール人ホモ・サピエンス双方の化石が出土しており、ホモ・サピエンスの出アフリカを考える上で重要な証拠を提供しています。
ヘブライ語で「洞窟群の渓谷」を意味する、イスラエルのカルメル山麓にあるナハル・メアロット渓谷には、タブーン洞窟とスフール洞窟という、ネアンデルタール人ホモ・サピエンスの化石が出土している洞窟があります。この地域でもっとも古いネアンデルタール人骨は、タブーン洞窟から出土したもので、17万~10万年前のものとされています。アムッド洞窟やケバラ洞窟など、イスラエルの他の地域で発見されたネアンデルタール人骨はいずれも6万年ほど前のものと考えられており、タブーン洞窟のネアンデルタール人とのあいだには時間的に大きなギャップがあります。
一方、スフール洞窟から発見されているホモ・サピエンスの化石は13万~10万年前と推定されており、タブーン洞窟のネアンデルタール人よりは新しい可能性があります。それでも、他のネアンデルタール人よりは古くなります。エズレル平野にあるカフゼ洞窟から出土したホモ・サピエンスは9万年ほど前のものとされ、これも新旧のネアンデルタール人の生息時期のあいだに挟まっています。

第5章 アジア集団の成立――極東への「グレート・ジャーニー」 より

旧石器時代におけるユーラシアでの集団移動

本章では、アジア集団の成立史に深く関わるユーラシア大陸全体での集団の移動について、現時点でわかっていることを説明します。前章で、ヨーロッパの現代人の成立にはポントス・カスピ海草原(現・ウクライナ周辺)に興ったヤムナヤ文化を持つ集団が関与していたと説明しました。その成立に関してはまだ謎が残っていますが、アジア集団の成り立ちにも関係してくる話なので、まずはじめにヤムナヤ集団の形成を旧石器時代までさかのぼりましょう。
旧石器時代には、初期拡散でユーラシア大陸中央部に広がった「古代北ユーラシア集団」が存在していたと考えられています。そこから西方に拡大したグループがユーラシア草原の狩猟採集民となりました。そのグループがコーカサスの狩猟採集民と混合して形成されたのが、ヤムナヤ集団であるとされています。
ただし、まだヤムナヤ集団の成立に関しての完全なシナリオが描かれているわけではありません。ヨーロッパやシベリアなど一部の地域を除いては、狩猟採集社会から農耕が始める1万年前よりも古いユーラシア大陸の古代ゲノム解析が行われていないために、人類のユーラシア大陸への展開がどのようなものであったのかは、正確にはわかっていないのです。
図.画像参照は、およそ4万から1万年前のユーラシアでの各集団のテリトリーと移動の方向を示したものです。アフリカを出た集団は中東での1万年におよぶ停滞を経て、5万年前より新しい時代にヨーロッパからシベリアまでの広い地域に拡散しました。その中で、ユーラシア大陸東部への拡散には、基本的には北ルートと南ルートがあったと考えられています。
南ルートはインドなどの南アジアを通過する経路で、そこで後述する現代のアンダマン諸島人につながる古代南インド狩猟採集団が形成されたと見られます。さらにこの集団の中から東南アジアへと進出したグループが現れ、古代東南アジア狩猟民となりました。彼らはデニソワ洞窟で発見された系統とは異なるデニソワ人と交雑した可能性があり、そこから南に拡散したグループがパプアニューギニアオーストラリア大陸に展開することになりました。東南アジアを起点に南北に分かれたグループの双方ともデニソワ人のゲノムを持っていることから、混血は東南アジアで起こったと考えられています。なお、オーストラリアyパプアニューギニアに展開した集団の古代ゲノムは現状では存在しませんので、この地域での旧石器時代にさかのぼる集団の移動に関しては、ほとんど解明が進んでいません。
その後、北上したグループは古代東アジア集団を形成しました。北上した古代東アジア集団を代表するゲノムは、中国の田園洞(4万年前、北京郊外)の男性人骨から得られています。分析された人骨のミトコンドリアDNAのハプログループはBで、アジアに広く分布するハプログループの祖先型であることが示されています。
今のところ、シベリアを除けば、4万年前から最終氷期の最寒期が終わる2万年ほど前までの期間の東アジアの古代ゲノムは、この田園洞のものしかありません。そのため、この時期の東アジア集団の拡散の状況を知ることは難しいのですが、ヒントは日本の縄文人のゲノムから得ることができます。

縄文人のゲノムと東アジア集団

日本列島に最初にホモ・サピエンスが到達したのは4万年ほど前のことになります。この時代は旧石器時代として括られますが、およそ1万6000年前には日本列島で土器がつくられるようになり、それから北部九州に稲作が入る3000年前ごろまでの時代を縄文時代としています。この時代に日本列島に居住した人間を縄文人と呼びます。

1万3000年におよぶおよぶ縄文時代を通して、前半と後半ではある程度の違いが認められているものの、基本的に縄文人は形質的な連続性のある集団だと考えられており、この時期の日本列島では集団の遺伝的な組成を変えるような外部からの流入はなかったと見積られています。

したがって、縄文人旧石器時代の日本列島集団の直系の子孫と考えられ、旧石器時代のアジア人のゲノムうぃ知る手がかりとなることが期待できるのです。