じじぃの「カオス・地球_45_時間の終わりまで・宗教の始まり・ヴェーダ」

PM Modi's address to the Nation & Yoga Session on International Day of Yoga 2018 in Dehradun | PMO

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=rAKtXjjIYvM

モディ印首相、国連本部でヨガ


モディ印首相、国連本部でヨガ 参加者の国籍最多でギネス認定

2023年6月22日 AFPBB News
米国を訪問中のインドのナレンドラ・モディ(Narendra Modi)首相は21日、「国際ヨガの日(International Yoga Day)」に合わせ、ニューヨークの国連(UN)本部でヨガのイベントに参加した。
国連本部では135か国から参加者が集い、イーストリバー(East River)沿いの芝生に黄色いマットを敷き、体を伸ばしたり、瞑想(めいそう)をしたりした。参加者の国籍数が最も多いヨガのイベントとして、ギネス世界記録(Guinness World Records)に認定された。
https://www.afpbb.com/articles/-/3469299

講談社 『時間の終わりまで』

【目次】
はじめに
第1章 永遠の魅惑――始まり、終わり、そしてその先にあるもの
第2章 時間を語る言葉――過去、未来、そして変化
第3章 宇宙の始まりとエントロピー――宇宙創造から構造形成へ
第4章 情報と生命力――構造から生命へ
第5章 粒子と意識――生命から心へ
第6章 言語と物語――心から想像力へ

第7章 脳と信念――想像力から聖なるものへ

第8章 本能と創造性――聖なるものから崇高なるものへ
第9章 生命と心の終焉――宇宙の時間スケール
第10章 時間の黄昏――量子、確率、永遠
第11章 存在の尊さ――心、物質、意味

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『時間の終わりまで 物質、生命、心と進化する宇宙』

ブライアン・グリーン/著、青木薫/訳 講談社 2023年発行

第7章 脳と信念――想像力から聖なるものへ より

宗教の始まり

紀元前1000年紀に、インド、中国、ユダヤ[今日のパレスチナ南部]にわたる地域で、粘り強くて創意豊かな思想家たちが、それまで語り継がれてきた神話と生き方の見直しお行った。それに続いてさまざまな進展が起こったが、そのひとつが、哲学者カール・ヤスパースの言う、「今も人類とともにある、世界宗教の始まり」である。今日の学者たちは、さまざまな発展のひとつひとつについて、それが宗教の始まりにどの程度関与したかをめぐって論争しているが、結果として起こったことについては意見が一致する。宗教体系は、追随者たちが物語を書き留め、洞察の中でもとくに質の高いものを選び出し、聖別された預言者によって信者たちに伝えられ、世代から世代へと口承されてきた教えを整備して聖典とするうちに、徐々に組織化されていったということだ。その結果として生まれたテクストの内容は当然ながらさまざまだが、どのテクストにも共通しているのが、本書の探求の旅をこれまで導いてきた問いに強い関心があることだ。

われわれはどこから来たのだろうか? そしてどこに向かっているのだろうか?

もっとも初期に書き残された記録の中に、インド亜大陸サンスクリット語で綴られたヴェーダがある。その一部は、紀元前1500年という古い時代に書かれたものだ。紀元前8世紀以降に書かれたとみられる注釈の集成であるウパニシャッドとともに、ヴェーダはのちにヒンズー教聖典を構成することになる膨大な数の、韻文、マントラ、散文の集成である。今日ヒンズー教を実践する人たちは、地球の住人の7人に1人にあたる11億人にのぼる。私は、10歳にもならない子ども時代に、ヴェーダウパニシャッドに個人的な接触を持つことになった。
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その後の数十年間、兄とはめったに会うこともなかったが、たまに話をする機会があれば、いつも話題にのぼるのはヴェーダのことだった。ヴェーダは、わだいの中心になることもあれば、背景に引いていることもあった。そんなヴェーダとの出会いが、私の興味関心の方向性に影響を及ぼしたのかどうかはわからない。あるいはまた、大きく異なる観点から似たような問題にアプローチする兄弟が対話すれば、そういう話題になるのは当然のなりゆきだったのかどうかもわからない。いずれにせよ、自分にはなじみのない宇宙の起源に関する古代の考察について知ったのは、間違いなく良い経験だったと思う。
宇宙の起源について、ヴェーダはこう語っていた。「そのとき、無もなかりき、有もなかりき、空界もなかりき、その上の天もなかりき、何ものか発動せし。いずこにて発動せしか? 誰の庇護の下に発動せしか? 深くして測るべからざる水は存在せりや? そのとき、死もなかりき、不死もなかりき。夜と昼を分かつ標識もなかりき。かの唯一物は、自力によって風なく呼吸せり。これよりほかに何ものも存在せざりき」。
私は、実在のリズムを感じずにはいられない人間の普遍性に感動を覚えた。しかし兄にとって、ヴェーダは単にそれだけのものではなかった。それは、私が数学的に学んでいた宇宙論より大きなヴィジョンを与えるものだった。
詩としてのヴェーダは、「すべての始まりの始まり」の謎を巧みに捉えている。メタファーとしてのそれは、「時間の前の時間」の不可解な本性について語る。瞑想としてのそれは、そもそも宇宙はなぜ存在するのかという、一見するとパラドックスのように思われる問いについて何かを語りかけるのかもしれない。たとえば、星のちりばめられた漆黒の空――畏敬の念を起こさせはするが、完全な謎に包まれた天――の下で、パチパチと音を立てる焚き火のまわりに共同体の全員が集まって心をひとつにしているようなときには、ヴェーダの詩句はきっと何か伝えるものがあったのだろう。しかし、古代の賛歌や韻文、太陽、地球、月といった供え物となるべく、神々によってバラバラに切り裂かれた千の頭を持つ原人プルシャという想像力溢れる物語は、宇宙の起源を説明するものではない。それらの言葉に反映されているのは、パターンを探し、説明を求め、生き残りに適合したわれわれの心なのだ。心は、生きるために必要な枠組みを与えてくれる物語を作り上げる。われわれはいかにして存在するようになったのか、われわれは行動すべきなのか、その行動の結果として何が起こるのか、生と死の本性とは何なのかといったことを物語に仕立て上げるのだ。散発的な兄との対話を通してわかってきたのは、ヴェーダは流砂のようにたえまなく移り変わる実在の基礎にある、安定して変わることのない特質を探究しているということだった。それは、物理学を研究する人たちの多くが、基礎物理学を特徴づけるために使いそうな表現だ。ヴェーダと基礎物理学はともに、日常経験といううわべの向こうを見たいという強い思いに駆り立てられている。だがその目的のためにやることは、この両者ではまったく違う。

紀元前6世紀の半ば、今日のネパールに生まれ、ヴェーダを学んで成長すたひとりの王子、ゴータマ・シッダールダは、先祖から受け継いだ贅沢な暮らしと、普通の人びとが耐えなければならないひどい苦しみとの格差に思い悩むようになった。有名な話によると、ゴータマは恵まれた身分を捨て、人間の苦しみを和らげる方法を探して世界を放浪することにした。彼の死後、追随者たちは彼の洞察を発展させてその教えを広め、今では地球上の人口の12人にひとりにあたる5億人ほどの人が実践する仏教となっている。仏教思想が広まるにつれて無数の分派が生じたが、すべての分派に共通するのが、人の知覚は実在を見誤らせるという信念だ。世界には、一見すると安定して見える特質があるが、真実は、いっさいはたえず変化しているというのである。

ヴェーダにルーツを持ちながらも、仏教はそれを離れて、存在の根底には時間が経っても変わらない基層があるという考えを否定し、人間の苦しみの根源は諸行無常を悟れないことにあるとする。仏陀の教えは、真実よりも鮮明に見るための生き方の指針を与えようとするものだ。そしてヴェーダと同様、そんな悟りの境地に至るまでには輪廻転生を経るとされる。しかし最終的には、欲、苦、我を超越した永遠の幸福に到達することによって、輪廻からの解脱を目指す。死んでからも命が続いていく領域として人類が思い描いてきたものが、死の謎に向き合うために心が作り上げた驚くべき策略だとするなら、ヒンズー教と仏教が死に向き合う態度は、さらに驚くべきものだ。なにしろ、このふたつの宗教は、永遠の命から解き放たれることを目指すというのだから。死には一段階の始まりという新たな位置づけが与えられる。そして、輪廻からの解脱が成し遂げられれば、個々の存在が、他とは区別されない領域に入る。限りある命としてわれわれが生きる人生は、時間のない世界へと続く道のりにおける、聖なる儀式なのだ。

ヒンズー教と仏教は、日常の知覚が与える幻影を超える実在を探求するが、過去100年間に起こった驚異的な科学的進展の多くもまた、同じことをやろうとしてきた。そのため、これらの宗教と現代物理学にはつながりがあると考え、そのつながりを明らかにすると称する記事や本を書いたり、映画を作ったりする人たちがいる。これらの宗教と科学にはものの見方や用いる言葉に似たところがあるのは確かだが、私は、あいまいなメタファーとしての共鳴以上のものに出会ったことがない。一般向けの本の中で現代物理学について語るときには、私もほかの著者たちも、ハードルを下げることを第1に考えて、数学はあまり使わないようにするのが普通だ。
しかし数学は、決定的に重要なかがくの拠り所なのである。どれだけ注意深く選ばれ、練り上げられた表現でも、言葉は方程式を翻訳したものでしかない。そんな翻訳を、他の分野との接点を確立するための基礎にしたところで、そんなつながりが詩的な類似性のレベルを超えることはまずないのだ。