じじぃの「歴史・思想_691_いま世界の哲学者・無神論者・ドーキンス」

CGM聖書アニメ『洪水の裁き -ノアの箱舟』~神様の愛とキリストの箱舟~(キリスト教福音宣教会

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=lGiFVzh8bg8


宗教右派アメリカ)

2014/03 imidas
アメリカの宗教人口
1960年代に公民権運動やベトナム戦争を背景として広がったリベラルな風潮への反動で、70年代以降、聖書の文言を重視するキリスト教原理主義が台頭。
その中から妊娠中絶や同性愛に反対し、公立学校での祈りの復活をめざすなど、キリスト教の伝統的な道徳的価値を積極的に擁護する組織的運動が生まれた。この運動を推進する勢力を宗教右派キリスト教右派)と呼ぶ。79年にテレビ伝道者ジェリー・ファルウェルが興した道徳多数派(モラル・マジョリティー Moral Majority)は、共和党保守派と結びつきレーガン大統領誕生の原動力となった。やはりテレビ伝道者のパット・ロバートソンが89年に創立したキリスト者連合(Christian Coalition)が、90年代には強い政治力を誇った。
https://imidas.jp/genre/detail/D-116-0003.html

いま世界の哲学者が考えていること

岡本裕一朗(著)
【目次】
序章 現代の哲学は何を問題にしているのか
第1章 世界の哲学者は今、何を考えているのか
第2章 IT革命は人類に何をもたらすのか
第3章 バイオテクノロジーは「人間」をどこに導くのか
第4章 資本主義は21世紀でも通用するのか

第5章 人類が宗教を捨てることはありえないのか

第6章 人類は地球を守らなくてはいけないのか
第7章 リベラル・デモクラシーは終わるのか

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『いま世界の哲学者が考えていること』

岡本裕一朗/著 朝日新聞出版 2023年発行

第5章 人類が宗教を捨てることはありえないのか――第3節 科学によって宗教が滅びることはありえない より

グールドの相互非干渉の原理

現代社会における「宗教」の意義を考えるために、今度は科学と宗教の関係に光を当ててみましょう。というのも、科学が発展すれば宗教は衰退していくと考えられたのに、科学が発展する現代においても、宗教はいっこうに衰退する気配がないからです。とすれば、科学と宗教の関係を、あらためて問い直さなくてはならないでしょう。

この問題に対して、20世紀末から興味深い議論が展開されてきました。発端となったのは、進化生物学者ハーバード大学教授スティーヴン・ジェイ・グールドが1990年に発表した『神と科学は共存できるか?』です。後にも触れますが、アメリカではキリスト教原理主義の活動が根強く、いまだに進化論よりも神の創造説が受け入れられることもあります。
この状況で、グールドは科学者として、宗教にいかなる態度をとればよいか明確に答えようとしています。
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グールドによれば、科学と宗教とは、「まったく別の領域で機能している」ので、2つの活動を1つに統合したり、相互に対立させたりできません。また、一方を消し去って、他方だけを存続させることもできないのです。むしろ、それぞれの活動領域を守り、相手に対しては干渉しない態度が求められます。これを彼は、「NOMA原理」と呼んでいます。

無神論ドーキンスの宗教批判

ところが、同じ進化生物学を研究しているオックスフォード大学教授リチャード・ドーキンスは、こうしたグールドのNOMA原理を厳しく批判し、宗教そのものを「妄想」としてしりぞけました。ドーキンスといえば、1976年に出版した『利己的な遺伝子』で進化生物学の一大ブームを引き起こしましたが、今回は宗教に対して宣戦布告を行なったわけです。

そのために、彼が2006年に発表した『神は妄想である』は、アメリカやイギリスだけでなく、世界中でベストセラーとなりました。

この書のタイトルで使われている「妄想(delusion)」というのは、精神障害の症候と関連していますが、それをドーキンスはロバート・M・パーシングの『禅とオートバイ修理技術』の次のような一節と重ねています。その部分を見ると、彼のスタンスがよく分かります。

  ある1人の人物が妄想にとりつかれているとき、それは精神異常と呼ばれる。多くの人間が妄想に妄想にとりつかれているとき、それは宗教と呼ばれる。

こうした宗教批判を展開するため、ドーキンスはグールドのNOMA原理を取り上げて、「ひろく行きわたった誤謬」と批判しています。グールドとは違って、ドーキンスは宗教の主張を仮説と見なしたうえで、それが科学的に正しいのかを検討しようとするわけです。ドーキンスによると、宗教が主張していることは、2つに大別することができます。
1つは神が存在するという「神仮説」であり、もう1つは道徳の根拠は宗教にあるという「道徳仮説」(この表現は筆者)です。そこでまず、「神仮説」と、それに対するドーキンスの結論を見てみましょう。

  私は神仮説をもっと弁護のしようがある形で定義したいと思う。すなわち、宇宙と人間を含めてその内部にあるすべてのものを意識的に設計し、創造した超人間的、超自然的な知性が存在するという仮説である。(中略)
  宗教の事実上の根拠――神がいるという仮説――はもちこたえることができない。神はほぼまちがいなく存在しない。これが、本書のこれまでのところの結論である。

このように、神が存在するという宗教の原理的な仮説を科学的に反論した後、ドーキンスは「道徳仮説」について検討していきます。というのも、神が存在しないとしても、宗教は道徳にとって重要である、と主張できるからです。じっさい、グールドのNOMA原理でも、「道徳的な価値」の領域は宗教のマジステリウム(カトリック用語で、"教えの権限の範囲"と言う程の意味)とされていました。

ところが、ドーキンスによると、非道徳的で残虐な行為が宗教にもとずいて繰り返されてきたのです。ドーキンスは、聖書やコーランなどを具体的に引用しながら、宗教にもとずく非道徳的な行為を数多く提示し、そこから宗教が道徳的であることを強く否定するのです。それに反して、宗教がなくても、人間は道徳的な行動をするとドーキンスは考えています。

こうしたドーキンスの宗教批判が、キリスト教イスラム教の原理主義的活動に誘発されたことは、ドーキンス自身も明言しています。その意味では、ドーキンスの宗教批判は、「ポスト世俗化」する現代社会において、世俗化の意義をあらためて復権しようとする運動だと理解できるでしょう。彼の宗教批判がどこまで影響力をもうのか分かりませんが、『神は妄想である』が世界中で150万部も売れたことから考えると、科学と宗教の問題が、現代でさえも重要なテーマであることは間違いありません。

創造説とネオ無神論

ドーキンスダニエル・デネットアメリカの哲学者、無神論者かつ世俗主義者)のように、21世紀になって推進されている宗教批判は、一般に「ネオ無神論」と呼ばれていますが、この批判によって宗教は失墜してしまうのでしょうか。それを考えるために、第1章でも紹介したドイツの若手哲学者マルクス・ガブリエルが2013年に出版した著作、『なぜ世界は存在しないのか』のなかの議論を見ておきましょう。

ガブリエルによれば、現代のネオ無神論が批判するような人々は、たしかにアメリカには存在しています。彼らは、「神が、キリスト誕生の数千年前のある時点で、宇宙と動物を創造したので、進化論や現代宇宙論は間違っている」という意見をもっています。そのため、自然科学よりも、創造説の方が自然をよく説明すると信じているのです。

こうした創造説に対して、ネオ無神論が「単に疑似――説明にすぎない」と批判したことは正しい、とガブリエルも評価しています。しかしながら、彼は創造説について、次のようなコメントを付け加えているのです。

  創造説は真面目に受け取られるべき科学的仮説ではなく、人間の想像力による恣意的な捏造であって、しかもとくに古いわけでもない。それが最初に現れたのは、19世紀であり、とくにアングロ・アメリカンのプロテスタンティズムにおいてである。幸運なことに、ドイツでは創造説は何ら役割を演じてはいない。(中略)創造説は宗教の自然な要素ではなく、むしろ迷信の一形態である。

ここから分かるのは、ネオ無神論のように創造説を批判したところで、本丸のキリスト教を批判できたことにはならないことです。それはどうしてでしょうか。

たしかに、『聖書』の「創世記」には、「初めに、神が天と地を創造した」と書いてあります。このセンテンスを、創造説もネオ無神論も科学的仮説として受け取ったのです。ところが、ガブリエルによれば、こうした理解は、ユダヤ教キリスト教の「最初期の形而上学的解釈者」たちによって、すでに拒否されているのです。したがって、ネオ無神論原理主義的な(「創造説」を主張する)キリスト教信仰を批判したところで、創造説をとらないキリスト教や他の宗教には、まったく影響しないのです。

それだけではありません。ガブリエルによると、すべてを「自然科学」の基準ではかろうとするネオ無神論には、危険性が潜んでいるのです。というのも、この基準では説明できない多くの現象があるからです。たとえば、その1つの例として、ガブリエルは<国家>を挙げて、次のように語っています。

  <国家>は、自然法則を侵害する超自然的な対象だろうか。自然的なものの基準が自然科学によって探求されるべき能力のうちにあるとすれば、神や霊魂と同じように、<国家>は超自然的なものにすぎない。<国家>が存在するという仮説は、自然科学的二は決定されないので、非科学的的になり、ひょっとしたらまったくの恣意になるのだろうか。

ここでガブリエルが主張しているのは、すべてを自然科学だけで説明できるわけではない、ということです。国歌のあり方、機能などを理解するとき、自然科学によって説明しようとしても、何も解明できないでしょう。そもそも、国家は物理的に存在しているわけではありません。とすれば、「日本国家は存在する」という仮説は、物理的に存在しないのだから、非科学的で誤っている、と結論すべきでしょうか。

自然科学によって説明できる領域もありますが、だからといって、それがすべてではないのです。じつを言えば、創造説とネオ無神論は、いずれも宗教の領域を自然科学によって説明すると考えた点で、同じ土俵に立っているのです。

このように見ると、創造説を批判するネオ無神論によって、宗教の問題が片付くわけではないことが分かります。宗教にアプローチするには、自然科学とは異なる仕方が必要になります。