じじぃの「ダーウィニズム・グールドの地獄めぐり・パンダの親指!理不尽な進化」

パンダの鳴き声・・・七星公園パンダ館

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=K_FCbwh9Pvs

パンダの指の数は7本?

ハヤカワ文庫 パンダの親指〈上〉―進化論再考

グールド,スティーヴン・ジェイ(著)
パンダはなぜ手に6本の指を持っているのか、ある種のダニの雄はどうして生まれる前に死んでしまうのか、ミッキーマウスが可愛くて悪役のモーティマーが憎たらしいのはなぜか、ピルトダウン事件の真相は?
―このような謎の解明に、現代進化生物学の旗手グールドは挑戦する。才気溢れる着想と楽しい話題、ときには辛辣だがユーモアに富んだ語り口で、科学と人間の関係をじっくり考えさせてくれるエッセイシリーズ第2作。

                    • -

リチャード・ドーキンス

コトバンク より
オックスフォード大学でノーベル医学・生理学賞受賞者、ニコ・ティンバーゲンのもとで学ぶ。1967年カリフォルニア大学バークレー助教授、’70年オックスフォード大学動物学講師となり、’89年助教授、’96年~2008年教授。
一方、1970年よりオックスフォード大学ニューカレッジ特別研究員。大学では動物行動研究グループのリーダーの一人として活躍。
1976年の著書「利己的な遺伝子」で生物遺伝子が自己の複製を残すための乗物であるという見方に立った独創的な進化論を展開し、世界の注目を集めた。
また、その後の社会生物学論争や進化論争では常に中心的な位置を占めている。他の著書に「延長された表現型」「神は妄想である」「遺伝子の川」「進化とは何か ドーキンス博士の特別講義」「好奇心の赴くままに〈ドーキンス自伝1・私が科学者になるまで〉」など。

                    • -

『理不尽な進化――遺伝子と運のあいだ』

吉川浩満/著 ちくま文庫 2021年発行

終章 理不尽にたいする態度 より

グールドの地獄めぐり

非対称的な論争――グールドだけが困っている

第3章でとりあげた適応主義をめぐるグールドとドーキンス(+デネット)の論争を振り返ってみると、どうも困っているのはグールドだけではないかという印象を受ける。

ドーキンスデネットが反論したように、適応主義プログラム(とそれを中軸に据えるネオダーウィニズムの枠組み)はグールドの批判をも運用上の諸注意として自らのうちに吸収することができる。彼らは自らの方法論に全幅の信頼を置いており、そのかぎりにおいてまったく困っていない。
論争は明らかに非対称的だ。グールドは論敵、つまりドーキンスデネットの土俵の上で戦いながら、その土俵にたいする不満を述べているだけのように見える。そしてそのような無茶をつづけた結果、勝手に自滅していったようにすら思える。

パンダの親指――現在的有用性と歴史的起源の論理的区別

現在的有用性と歴史的起源との区別を重視するグールドの姿勢は、奇妙なもの、変わったもの、おかしなものの探究へと導く。なぜなら、そうした奇妙さやおかしさこそ、現在的有用性と歴史的起源の食い違いのあらわれであり、それが固有の歴史をもつことの証しであるからだ。
デネットが明快に説いたように、ダーウィニズムの要諦は、自然淘汰のエンジニアリング的と呼ぶほかない驚異的な仕事が、実際には特定のエンジニアの存在なしに遂行されるという点にあった。では、それを立証するためにはどうすればよいか。自然淘汰によると思われる完全に調査のとれたグッドデザインを探せばよいのだろうか。逆である。不完全、不一致、不調和なものをこそ、探さなければならない。
  ダーウインはまさに逆のことをしたのである。彼は奇異なものや不完全なものを探し求めた。(……)ダーウインは、もし生物が歴史をもっているのならば、祖先のいろいろな段階で”痕跡”が残されているはずだと推論した。現代では意味を失っている過去の痕――無用なもの、奇妙なもの、特異なもの、不釣合いなものなど――は、歴史があることを示すしるしである。これらは世界が今ある形でつくられたのではないという証拠である。(Gould 1980=1996: 上 36-7)
    ・
グールド自身が有名にした事例に、パンダの親指にかんするエピソードがある。ご存じのとおりパンダは竹や笹を食べる(しかし元来の雑食性も残っており、小型哺乳類や魚、昆虫等の小動物や果物など、時と場合によってなんでも食べる。最近でも中国四川省で野生パンダが民家に侵入し、仔羊を盗み食いするといいう衝撃的なニュースがあった。
パンダが竹を食べる様子を見ると、屈伸自在に見える「親指」とそれに向かい合った他の指とのあいだに茎を通し、両手で器用に竹を握っているように見える。まあ実際に握っているのだが、これはちょっとした驚きである。ふつうクマには(というか霊長類を除くほとんどの動物には)そんなことはできないからだ。親指を含めすべての指が5本とも同じ方向を向いているためである。指の数をかぞえてみると、さらなる驚きが待っている。「親指」に向かい合うのは4本の指ではなく、同じ方向を向いた5本の指なのである。ではパンダの「親指」とはなんなのか。じつはこの「親指」は、解剖学的にはまったく指ではなく、異常に大きくなった手首の骨のひとつ(橈骨種子骨)であり、それが第6の指として私たちの親指のように働くのである。だからパンダは、本来の5本指に、件の「親指」を加えた合計6本の指をもっているように見える。
どうせ竹や笹ばかり食べるのならば、人間のように親指と他の指を向かい合わせにして物を握るように進化すればよかったではないか。しかしそうは問屋が卸さなかった。パンダにはクマの一味として雑食性の生活を送った長い歴史があり、その過程で本来の親指はクマ的に十分に特殊化してしまっていたからだ。そうした歴史的な拘束から逃れることは容易ではない。そこでとられた方策が、第6の指としての種子骨親指なのである(最近の研究では第7の指も存在するといわれている)。
  パンダの真の親指は他の役割を振り当てられて別の機能をもつように特殊化しすぎていたから、物をつかむための対向可能な指に変わることはできない。そこでパンダは手持ちの部品を使わねばならず、拡大した手首の骨で間に合わせ、多少うまく使えなくともひとまず役に立つ解決方法で満足しなくてはならなかった。種子骨親指はエンジニアの競技大会で賞をとるようなものではない。(……)だが、それは立派に仕事をしているし、これまで見てきたような思いもよらない基盤から成り立ったものだからこそ、われわれの想像をいっそうかきたてるのだ。(Gould 1980=1996: 上 30)
こうした不調和や不一致(discordance)から研究対象の歴史性をあぶりだすやりかたを、グールドは「パンダ原理」(panda principle)と呼び、これを歴史的研究の重要な構成要素とみなした(Gould 1986)。ダーウインの偉いところは、この原理をよく理解し、歴史科学としての進化生物学の方法論を確立したことにある。そうグールドは言う。

進化論の中間的性格――「説明と理解」を内蔵する学問装置

このように、進化論の特異な魅力はその中間的性格にある。中途半端という意味ではない。「時間を超えた数量的な一般法則を取りあつかう諸科学」と「歴史の特殊性を直接の対象とする諸科学」のあいだの広大な領域を行き来することができるという意味ある。
このことはグールドは正確に見抜いていた。だからグールドの適応主義批判の主旨は、越権はズルいとか看板に偽りありとか、ただ文句をつけることではなかった。彼の関心は、この進化論の中間的性格をいかにして守り抜くかにあった。進化論ん2本柱――進化のメカニズム(自然淘汰)と生命の歴史(生命の樹)――の論理的な独立性と平等な関係は、進化論(ダーウィニズム)が進化論であるための条件なのだから。その条件を原理的に確保しようとするのが彼の試みであり、適応主義批判の意義もそこにあった。そのかぎりにおいて彼の企図は非常にまっとうなものだったのである。
しかし、だからといって彼が正しい道を歩んだかといえば、私はそうは考えない。まっとうな志を貫徹しようとして地雷に触れ、まっとうでない立場に追い込まれたというのが、彼の地獄めぐりのシナリオである。進化論の魅力の源泉である中間的性格は、それを護持しようとする者を混乱させる地雷ともなる。彼は正しく問題を見定めたが、むしろそれによって進むべき道を失ったのである。

                    • -

どうでもいい、じじぃの日記。
吉川浩満著『理不尽な進化――遺伝子と運のあいだ』という本を一応、読んだ。
ダーウィンの「進化論」について書かれているが、多くのページを進化生物学者ティーヴン・ジェイ・グールドに割いている。
グールドとドーキンスの進化論ではどこが違うのか。

グールドは「パンダ原理」(panda principle)と呼び、これを歴史的研究の重要な構成要素とみなした(Gould 1986)。ダーウインの偉いところは、この原理をよく理解し、歴史科学としての進化生物学の方法論を確立したことにある。

パンダについても、グールドとドーキンスとでは捉えかたが異なるのだろうか。