じじぃの「歴史・思想_645_近代史の教訓・楠木正成」

楠公の歌~櫻井の訣別~

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=U8yjnEu0QJY

青葉茂れる桜井の 歌詞 桜井の訣別・別れ 楠木正成

足利尊氏湊川で迎え撃った楠木正成 息子への最後の教え
「青葉茂れる桜井の」が歌い出しの『桜井の訣別』(さくらいのけつべつ)は、明治32年(1899年)に発表された日本の唱歌。作詞:落合直文、作曲:奥山朝恭。

歌詞では、鎌倉時代末期の名武将・楠木正成(くすのき まさしげ)とその息子・正行(まさつら)にまつわる伝承「桜井の別れ」が描写されている。
https://www.worldfolksong.com/songbook/japan/sakurai-aoba.html

楠木正成(くすのきまさしげ)

ブリタニカ国際大百科事典 より
1294―1336年。
鎌倉時代末期~南北朝時代の武将。河内の土豪
正成以前の楠木氏については不明。元弘1=元徳3 (1331) 年,後醍醐天皇の召しに応じて笠置山の行在所に参向し,河内赤坂城に挙兵して六波羅勢の攻撃を防いだが落城。翌年千早城を築いて籠城し,幕府軍の猛攻に耐え,諸国の反幕勢力の挙兵を促した。
建武中興の際その功により,河内,和泉の守護,河内の国守に任命された。
建武2 (35) 年,足利尊氏が中興政府に反旗を翻すと,新田義貞らとともにこれを討ち,いったんは撃退した。翌延元1=建武3 (36) 年,尊氏が九州から大軍を率いて攻め上った際,摂津湊川にこれを迎撃して敗死。明治になって湊川神社に祀られ,正一位を追贈された。

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『近代史の教訓――明治のリーダーと「日本のこころ」』

中西輝政/著 PHP研究所 2022年発行

第1章 人間を中心に歴史をつかむ より

日本の歴史を貫く3本の「筋」

日本の歴史を大きくタテに目を見渡したときに、はっきりとした「筋」のようなものが3つほど見えてきます。この日本の歴史を貫く3本の「筋」という視点が、まさに本書の出発点になります。

第1は、日本人特有の繊細で美的な感性です。古来日本には、現代人の目から見ても驚くような鋭い感覚に満ちた芸術作品がたくさん残されています。そうした日本人お感性は、芸術や文化の領域だけでなく、思想や道徳観、人生観にまで及び、日本の歴史を動かしてきた大切な「筋」の1つになっていると思うのです。

第2は、日本という国では、つねに政治が実用主義プラグマティズム)で行なわれていることです。たとえば、平清盛徳川家康という人は、権力の機微に通じた現実主義を重んじ、経済問題にも敏感に対応しました。明治以降では伊藤博文吉田茂といった人も、僕らと同じ系譜の人間と見ることができます。彼らは、決してある特定のイデオロギーの虜(とりこ)にはならず、目の前の現実的な課題に対して、柔軟な解決を図ることができた人たちでした。ここでは、彼らが日本特有の社会と人間を見つめる深い洞察力の持ち主だったことも忘れてはならないでしょう。

そして第3は、「日本とはこういう国である」という国家意識です。そもそも、この列島は火山噴火や地震が他国に比べて極めて多いという自然条件からしても、日本の特殊性は際立っており、それがこの国と日本人のあり方を半ば決め手いるようなところがあります。たとえば、大平原をひた押し進んで発達したアメリカの平板な効率主義を、山あり谷ありの日本で無理押しすると、かえって非効率に陥るのは明らかです。
かつてどの時代の日本人も、各時代で少しずつ小さな違いはあっても、一貫した国家意識というものを共通してもっていました。昭和の戦争に入っていく時期は、それをことさらに振り回しすぎた感がありますが、逆に戦後はまったく触れられなくなっています。そのため戦後生まれの日本人は、学校の歴史教育で「日本とは何か」という日本観や国家観について教えられることがなくなり、大人になって自分の国についての基本的な知識が欠落していることを、いま多くの人が切実に感じはじめています。

「上手な政治」か「正しい政治」か?

聖徳太子天武天皇の7世紀に次いで、日本史の「結節点」を考えるときに、次の極めて重要な時代は、14世紀の南北朝時代です。日本の歴史界では中世は語られることの少ない時代ですが、南北朝時代についても、一般に今の日本人はごく浅薄な知識しかもっていないのではないでしょうか。これもやはり、戦後に、日本の歴史の教え方が大きく変わったためです。
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興味深いことに、南北朝の動乱を舞台にした軍記物の『太平記』は14世紀以降、日本の歴史を通じて、どの偉大においても非常に幅広く日本人に読まれました。よく西洋史における最大のベストセラーは『聖書』だといわれますが、日本の場合これにあたるのは、部数でいえば圧倒的に『太平記』なのです。
とくに江戸時代に入りますと、木版印刷が普及したことによって、ほぼ10年おきぐらいにいわば『太平記』ブームが起こります。要するに、『太平記』が第二次大戦まで、600年間ずっと一貫して日本人が1番よく読みつづけ、そこからこの国の自画像を刻みつけていった教養の宝庫だったわけです。

その『太平記』における最大の英雄が、南朝方の楠木正成(くすのきまさしげ)です。

軍事と戦略の天才であった正成は千早(ちはや)城に籠って敵軍を翻弄し、鎌倉幕府打倒の端緒を切り拓きます。しかし「建武の親政」によって生まれた後醍醐天皇の新しい朝廷に反旗を翻した足利尊氏の大軍が九州より京い押し寄せると、正成は京都盆地に敵を誘い込んで足利軍の全滅を図る戦略を提言し、後醍醐天皇比叡山へ避難のための行幸真言しますが容れられず、「もはやこれまで」と死を覚悟して兵庫「湊川の戦い」に出陣し、圧倒的な尊氏の大軍に正面から戦いを挑んで玉砕し、弟の正季(まさすえ)と刺し違えて自刃しました。
この「湊川の戦い」は『太平記』でも「無謀な作戦」とされ、とくに稀代の戦略家であった正成にはそのことはよくわかっていました。しかし、いったん天皇の命令が下された以上、従容として湊川へ赴きます。その途上で、息子正行(まさつら)と最後の言葉を交わす有名な「桜井の訣(わか)れ」の場面があるのです。「忠臣蔵」などと同様、この場面は何百年もの間、日本人に語り継がれて、どの時代にもつねに日本人の涙を誘ってきた日本史上の名場面の1つです。

正成は正行に対して、この無謀な戦いを命じた天皇をお怨み申し上げる気持ちが起きたら、「そのときは天照大神の御名(みな)を唱えよ」と諭します。つまり、天皇は神の子孫であることを思い起こしなさい、ということです。親子の情愛、天皇への忠義の大切さとともに、つねにこの国をつくった神様を意識することで、「日本という国」の国家像と日本人の生き方というものが、わかりやすく伝わってくる話になっているわけです。この正成の「日本観」というものは、戦後の歴史家がいうように明治政府が創作した話でも何でもなく、『太平記』を読みついできた日本人の多くが一貫して共有してきたものです。そしてそれは、吉田松陰坂本龍馬といった幕末の志士たちにも深い感動を呼び起こし、維新へ向かう行動の源泉ともなりました。