じじぃの「人の死にざま_1583_服部・半蔵(伊賀忍者)」

CR忍者ハットリくん 科学忍法VS忍の術 動画 YouTube
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忍者でござる

服部半蔵 ウィキペディアWikipedia) より
服部 半蔵(はっとり はんぞう)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて松平氏から徳川氏の麾下で活躍した者を指す。
代々「半蔵」を通称の名乗りとした服部半蔵家の歴代当主である。また、歴代の当主は石見守(いわみのかみ)という百官名も持ち、服部石見守とも称した。詳細は不明であるが、忍者だったのは初代だけであり、2代目以降は忍者ではなかったとされる。
【歴代】
・初代 服部半蔵(半三)保長
 生没年不詳。伊賀出身の忍者。伊賀を出て室町幕府12代将軍足利義晴に、続いて三河にて松平清康に仕える。
・2代目 服部半蔵正成
 徳川家康に仕えた、伊賀同心の支配役。いわゆる「服部半蔵」として世間でよく知られるのは彼の事である。だがあくまで伊賀同心は配下の一部門であり、自身は甲冑を着て足軽を率いた武士である。

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『「歴史」の意外な結末―事件・人物の隠された「その後」 日本博学倶楽部/編 PHP文庫 1998年発行
家康の覇業を支えた服部半蔵とその一族 太平の世の暮らしぶりは? (一部抜粋しています)
徳川家康(1542〜1616)が天下をとった陰で、それを支えたのが、伊賀忍者服部半蔵とその配下たち。
服部一族は武田の甲斐忍者たちとすさまじい謀略戦を展開し、また、本能寺の変の直後に家康が伊賀越えして難を逃れたときには、半蔵をはじめとする忍者たちの働きで、家康は何度となく危機を脱している。
ずっと家康とともにあったその働きのおかげで、半蔵は、忍者のなかでもとくに知名度の高い人物だ。
その半蔵と彼の配下の忍者たちは、平和になった江戸時代、どうなったのだろうか?
戦乱のあいだはめざましい働きをしたというのに、平和になってからの彼らはじつに不遇だった。
半蔵は、槍の使い手でもあったので、武将として、「ゆくゆくは大名に」というぐらいの夢はあったかもしれないが、幕府成立後に得た地位は、一代かぎりの旗本で、江戸城の警備という下っぱの仕事だった。江戸城に、「半蔵門」の名は残されているが、この半蔵門も、江戸城にとっては裏口にすぎない。
半蔵は、1596(慶長元)年11月、55歳で死去し、服部家は、子の正就(正成の長男)の代で断絶した。