じじぃの「科学・地球_437_アルツハイマー征服・ヒューマニンの発見」

Women and Alzheimer’s Disease


Women and Alzheimer’s Disease: Does it Affect Them Differently?

May 3, 2022 Ingleside
●WOMEN ENGAGE IN LESS EXERCISE
Those who exercise may have a lower risk of developing Alzheimer’s disease but typically women exercise less than men. One study observed women who maintained a high fitness level were 88% less likely to develop dementia than those functioning at a medium fitness level.
https://inglesideonline.org/women-and-alzheimers-disease-does-it-affect-them-differently/

アルツハイマー征服』

下山進/著 角川書店 2021年発行

第15章 アミロイド・カスケード・セオリーへの疑問 より

  アミロイド斑は原因ではない結果である。そう言ってまったく別のアプローチをとろうとした日本人科学者がいた。がその支流は大きくはならず枯れてしまう。その一部始終。

バピネツマブ(ベータアミロイドを標的とするアルツハイマー病治療薬)の治験中止についてはスキャンダルのおまけがついた。
フェーズ2の治験委員会の長をしていたミシガン大学シドニー・ジルマンが、治験の内容を、正式に公表する12日前に、ヘッジ・ファンドの経営者マシュー・マートーマに話し、マートーマは、その情報を得たことで、エラン社とワイス社の株を売り、2億7600万ドルの損失を防いでいた。それがFBIの知るところとなり、マートーマが逮捕されたのだった。
ジルマンは、長年ウォール・ストリートの複数のヘッジ・ファンドのコンサルをやって莫大な収入を得ていた。
シドニー・ジルマンは、捜査に協力することで逮捕はされなかったが、しかし、そのニュースが明るみに出ると大学の職を失い、それまでアルツハイマー病であげた名声は無に帰した。
しかし、科学者たちにとって、このスキャンダルよりも大きな問題は、抗体薬の治験で治療的効果が認められないということだった。ジルマンが漏らしたフェーズ2の結果も、治療の側面では期待されたような結果は出ていなかった、ということをヘッジ・ファンドに漏らしていたのである。
バピネツマブのフェーズ3の結果が発表された翌月、イーライリリーが、ソラネズマブの第三相治験の中止を、「治療効果を達成していない」として発表していた。ソラネズマブは、アセナ・ニューロサイエンス時代に、デール・シェンクとピーター・スーベルトがPDAPPマウスで開発をしていた「266」という抗体を「ヒト化」したもので、エランに買収される際に、イーライリリーに権利を売却したことはすでに書いた。
アミロイド・カスケード・セオリーにのった抗体薬のロジックはこうだ。
アミロイド・カスケード・セオリーによれば、アミロイドが脳の中にたまっていき、凝集し、ベータシート構造になって、脳に沈着する。これがアミロイド班(老人斑)で、それがたまってくると、神経細胞内に、タウが固まった神経原線維変化が生じてくる。そうすると、神経細胞が死んで、脱落する。それがアルツハイマー病の症状をおこす。
であれば、そのカスケードの最初のドミノの1枚を抜いてしまえばよい。アミロイドが凝縮したものを脳内からとりさってしまえば、カスケードは起きないはずだ。
アミロイドを直接注射することで、生じる抗体によってとりのぞくという「ワクチン療法」で、実際に、マウスの脳からアミロイド班が消え去ったという報告を、シェンクらがネイチャー誌に1999年に発表したことはすでに書いた。2000年代の初頭は、「アルツハイマー病の根本治療薬」が明日にでもできるような熱狂に、学界も、ジャーナリズムもウォール・ストリートもわいた。
実際AN1792(アルツハイマー病ワクチン)が失敗したあとの2002年12月に、シェンクやドラ、ピーターをサンフランシスコの研究所に私は訪ねているが、その熱気をじかに感じることができた。彼らは、自信をもってこのアプローチの革新性を話し、開発中の抗体薬の可能性について語ったのだった。
が、2010年代になって、最初に治験に入ったバピネツマブやソラネズマブで効果が得られなかったという治験結果が出てくると、ウォール・ストリートやジャーナリズムは、強い疑問をもちだす。
そもそも、アミロイド・カスケード・セオリーは正しいのだろうか?
1990年代から、アミロイド・カスケード・セオリーに疑問をていする研究者はごく少数ながらいた。
本章ではその違う道筋からアルツハイマー病にいどもうとした一人の日本人科学者について書くことにしよう。

細胞内信号伝達からのアプローチ

「アミロイド班というのは、宇宙人科学者からみたアーリントン墓地の墓石のようなものだ。墓石をとりのぞいても遺体は生き返らない」
そのように主張していたのは、東大の第四内科から1992年にハーバード大学医学部の准教授に抜擢された西本征央(いくお)という男だった。
東大の第四内科というのは、ホルモンなどの内分泌系が専門の教授がもっていた科だった。そこに師事した西本はまったく別のアプローチからアルツハイマー病をとらえるようになる。
ホルモンの内分泌系では、細胞における信号伝達を重視する。西本もそこに着目した。
細胞膜から核への信号伝達は、80年代に興隆した研究分野だった。
Gタンパク質がとりわけ重要だった。というのは、この物質がアドレナリンの受容体やインスリンの受容体にもくっついてシグナルをだして、細胞内の情報伝達の役割をになっていたからだ。そのGタンパクが、AβがきりだされるAPPにもくっつくのではないかと考えたのが、アルツハイマー病の研究に入るきっかけだった。
Gタンパクは、細胞膜を7回貫通しているものにしかくっつかないとされていたものを、1回しか貫通していないAPPにもくっつくとしてネイチャーに論文を投稿、採用される。

「ヒューマニン」の発見?

しかし、まったくの別アプローチをとる西本に対する主流派の扱いは冷たかった。
西本自身も自分の仮説に固持するあまり、配下の研究員に、その仮説をそったような結果を出すよう圧をかけていたと証言する部下もいる。
「そうなるやろ、どうや、ほらなったやないか」。ということだ。
西本についてハーバードに行った同じ第四内科出身の岡本卓は後にそうした西本の資質について次のようなエピソードを私に語っている。
赴任したハーバード大学には、プレセニリン2を発見したルドルフ・タンジがいた。
「最初は、まったく別のアプローチで画期的な成果を出した研究者として西本に接していた。しかし、実験をしてみて、再現できないことがわかると、とたんに冷たくなった」
タンジらが問題にしたのは、西本がネイチャーに発表した1993年の論文だった。そして西本自身は、わずか4年でハーバードのポストを失い日本に戻ってくる。ポストを失ったのは、西本のやった研究の再現性がとれない、ということがハーバードないで攻撃されたからだと岡本は証言している。
東京大学に戻ることを希望したが、ハーバードでの噂が影響し、ポストを得られなかった。慶應義塾大学医学部の薬理学教室の教授に就任する。
落下傘で慶應におりたったわけで、苦労も多かった。
そのなかで、西本によくついていった千葉知宏(当時院生)によれば、論文を有力誌に投稿する際にも、かならずカバーレターに、「セルコーやタンジのところには行かないようにしてくれ」とわざわざ書いていたのだという。アルツハイマー病の研究だからといって、アミロイド・カスケード・セオリーを信じる主流派のデニス・セルコーやルドルフ・タンジには論文の査読をさせるな、ということを編集部に念おししているのである。
慶應大学で、西本は、アミロイド・カスケード・セオリーとはまったく別のアプローチでアルツハイマー特効薬をつくろうとした。
カスケード・セオリーにのった創薬は、その最初のドミノの1枚のアミロイド班をぬく、というものだ。しかし、アミロイド班は病気とは関係がないのではないか。アルツハイマー病の症状がでるのは、神経細胞が死んで脱落していくからだ。そこをとめればいい。
脳の中でも海馬や前頭葉といった場所でこの脱落は起きるが、後頭葉では起こらない。なぜだろう? それは、後頭葉神経細胞死をふせぐ何らかの物資があるからではないか?
この後頭葉から、24個のアミノ酸からなるタンパク質の物質を発見したとして「ヒューマニン」と名付け、2001年5月22日発行の米科学アカデミー紀要に発表した。
この「ヒューマニン」の発見は、日本のマスコミで大々的にとりあげられた。
同日の読売新聞は一面トップで
アルツハイマー病発症を防ぐ物質発見」
「原因遺伝子使用し実験 脳細胞壊れず」
「慶大教授らマウスで確認」
と報じた。
が、すぐに、この「ヒューマニン」という物質の遺伝子配列が、ありふれたミトコンドリアDNAと同じだという指摘が、他の科学者からでた。しかも、そのことをこの論文の主文に書かず付属データのひとつにさりげなく「人間のミトコンドリアDNAの遺伝子配列と99パーセント同じ」と記してあることも、必要以上に成果をフレームアップするための姑息な手段だと非難された。
このころ、東京大学の後輩で、薬学部の教授だった岩坪威(たけし)は、西本に「研究室に実験を見に来てほしい」と言われている。西本は研修医じだいの指導教官だった。
岩坪も医学部に残れず薬学部に出された研究者だったが、そこで、Aβ40と42のモノクロナール抗体を使って、Aβ42の病原性を立証するという画期的な仕事をし、押しも押されぬ若手のアルツハイマー病研究の旗手となっていた(後に井原康夫の研究室をついで大学院医学研究科の教授になる)。2002年当時、デール・シェンクも、「若手であれば岩坪」と太鼓判をおしていた気鋭の学者だ。
西本は、高校2年生の時に、父親を交通事故でなくした交通遺児だ。あしなが育英会奨学金で苦労して東大医学部を卒業して医者になった。その西本の猛烈な個性に、岩坪はひかれながらも、ヒューマニンの論文はオーバーステートメントではないかと考えていた。
が、岩坪は西本との友情にめんじて、慶應の西本の研究室をこのとき訪れている。
「ヒューマニン」で批判にさらされる西本にとって、岩坪が研究室で実験を見てくれたという事実が大事だった。