じじぃの「歴史・思想_569_恐怖のパラドックス・恐怖と想像が出合うとき」

Persecutory Delusion

Persecutory Delusion Illustrations & Vectors

https://www.dreamstime.com/illustration/persecutory-delusion.html

『「恐怖」のパラドックス 安心感への執着が恐怖心を生む』

フランク・ファランダ/著、清水寛之、井上智義/訳 ニュートンプレス 2021年発行

第3章  恐怖と想像が出合うとき より

ある日、エラという名前の女性が訪ねてきて、最近受けたレントゲン検査で何か疑わしいものが見つかったと言った。もともとレントゲン検査を受けたのは、背中の下の方で感じる奇妙な痛みの原因を知るためだったが、エラは検査結果に明らかに動揺し、心配していた。彼女の祖父は肺癌で亡くなり、彼女自身も長年喫煙者だった。タバコはもうやめていたが、癌の恐怖は見た目にも明らかだった。
エラに会った途端に心配になった。彼女のことがとても気になり、話を聞くにつれて、やはり彼女は癌ではないかと思い始めた。私と一緒に苦痛と絶望に向き合おうとしている彼女のぼんやりしたイメージが浮かんできて、これから起こるかもしれない恐ろしい場面のひとコマが目の前に浮かんだ。彼女はどう感じるのだろう? どんな人生の最終章になるのだろう? 彼女のこれまでの人生は苦しみの連続で、やっと平穏を手に入れ始めたところだったのだ。
エラが自分の経験を語るにつれて、私には彼女がどれほど怖がっているかわかった。同時に、私と同じように彼女の空想もフル回転しているのがわかった。疲労、ときどき起こるめまい、昨夜眠れなかったこと、食欲がないこと、おなかに触れたときに感じる痛み、首の凝り、息切れなど、小さな徴候から何かからだに感じるものまですべてが、自分がこれから向き合う癌の症状かもしれないと想像を巡らしながら語り始めた。癌だと結論づける証拠は何もないのに、「そうかもすれない……喫煙者だったし……癌かもしれない」と繰り返し言い続けた。たしかにエラの言う通り、癌かもしれない。

暗闇のなかの知覚

人間の視覚のなかでもっとも興味深い要素の一つに「盲視」と呼ばれるものがある。ブリティッシュコロンビア大学の心理学者ゴードン・ビンステッドは盲視について深い研究を行い、盲視を「第二の視覚」と呼んだ。ある種の視覚情報を眼から中脳へ直接伝達する二次的な視神経に関するもので、脳の一部を構成する中脳は、即座にかつ意識を通さずに防衛的運動反応、たとえば「ぱっと身をかわす」などの反応を活性化することがわかっている。
ビンステッドの実験では、皮質盲の実験参加者、つまり網膜は機能しているが、脳の後方にある視覚中枢が機能していない実験参加者は、第一次視覚が欠如しているにもかかわらず、周辺の物体を感知できた。これは、中脳が意識的な自覚なしに潜在的な脅威に防衛反応を起こせたことを意味している。
かつて盲視は、皮質による視力を失ったあとに起こる二次的な神経の発達だと考えられていたが、現在では、レベルの違いはあっても私たちすべてがもっているものと理解されている。もし、二次的視覚による防衛システムの進化についてビンステッドの直感が正しければ、目に見えず実体のない危険、つまり暗闇という難題の解決へ向けた一歩として発達した防衛システムだということになる。
解決を必要としたもう一つの目に見えない脅威は、感染症に加えて腐敗して悪臭を放っているもの、有毒なもの、腐りかけたものによる中毒の分野である。私たちは進化の過程において、これらの見えない敵を「見る」ために、嫌悪する感情を発達させることになんとか成功した。盲視に似て、嫌悪は見えない脅威を見つけ出し、私たちを危険から遠ざけるための運動行為を活性化する機能をもっている。

想像力の進化

1997年、ラトガーズ大学の著名な心理学教授、アラン・レスリーは、、見立ての遊びの進化上の必要性について一つの重要な疑問を提起した。「現実の論理的評価」に大きく依存している人間が、どうして子ども時代に見立て遊びの能力を発達させるためにこれほど長い時間を費やすのか不思議に思ったのだ。
見立て遊びの意味についての疑問に答えるなかでレスリーは、ふりをする行為において微妙な認識の転換が起こる様子を見事にこう表現した。彼はこの転換を「デカップリング(遮断や分離の意)」と呼ぶが、これは一次表象を解放しながらメタ表象との結びつきを維持するプロセスを意味する。
    ・
さて、ここまで私たちが何を学んできたか見てみよう。およそ5万年前に私たちの心は比喩を使う能力を獲得した。かつて知ることができなかった暗闇の秘密が、推測あるいは懐疑による連想の不思議によって明らかになった。私たちは、暗闇の向こうに何が待っているかの予測や想像を始め、予測の範囲は経験とともに幾何級数的に拡大した。だがこの進化のなかでもっとも意義深いのは、知ることができないものすべての比喩として、暗闇の概念が浮かび上がってきたことだ。
夜を具象的に経験することを手始めとして、私たちの心は不確実さの抽象的観念を概念化することを始めた。「太陽が沈むとき」という状態に対して具象的に応用していたものを、今やあらゆるものに対して比喩的に応用できるようになり、私たちが知っていると思っていた周りの世界が二重の存在という意味を帯びるようになった。目に見えるものに加えて、知っていると思ったその瞬間の内部に、未知のものの存在する瞬間が並行して存在していることに気がついたのだ。私たちは想像によって空白を埋めるようになり、好奇心、不思議に対する疑問、疑い、そしてついには不信という感情を獲得した。
暗闇のなかを具象的かつ比喩的に見ることで、危険を予測し脅威を予見する能力が非常に高まった。しかしながら、この能力が抱える問題は、私たちのセキュリティシステムが現実の正確な評価の上に築かれたものではなく、単に可能性の上に築かれたものだという点である。そこで、前述した心理学者レスリーが不思議に思ったこと、つまり見立て遊びが子どもたちの初期の発達になぜこれほど組み込まれようになったのかを思い起こしてみよう。ひょっとすると、妄想症は精神疾患の一症状というよりも、むしろ私たちのもつ、生き残ろうとする動因の強さの証しと考えてよいかもしれない。