死亡率100パーセントを生きる―ある愛と死の記録 木原武一 2000年 amazon
乳癌の発病、余命3か月の宣告…。しかし、妻はホスピスから奇跡的に退院し、濃密な3年を生きて、逝った。生の歓びと死への怖れ。克明に描かれた、ある夫婦の10年間の記録。
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『死亡率100パーセントを生きる―ある愛と死の記録』 木原武一/著 新潮社 2000年発行
勝ち目のないたたかい より
彼女は、玄米菜食によって癌をなおしたという、あるアメリカ人のケースについて話しはじめた。40代後半のその男性は前立腺癌にかかり、頭蓋骨や肩甲骨、脊椎骨、胸骨などに転移があると診断され、担当医からたぶんあと数年しか生きられないだろうと言われた。激しい背中の痛みに悩まされていて、その痛みを抑えるには大量の鎮痛剤を服用しなかればならなかった。両方の睾丸の摘出手術を受け、ホルモン療法を施されたが、病状は悪化するばかりだった。20年以上も麻酔医として働き、大病院の院長をしていたその男性は、みずからその一翼をになっていた近代的な西洋医学によっては治療の見込みはないと考え、それにかわる手段、効果が科学的には証明されていない代替手段、いわゆる民間療法を探しはじめた。そして、彼が偶然の機会から出会ったのが、玄米菜食による癌治療だった。
彼はそれまでの肉食中心の食事を止め、玄米を主食として、野菜や海藻類を副食とする食事に切り替えた。独身の彼は、食事はすべてレストランで済ませていたが、玄米菜食をはじめてからは、外食はいっさい止め、外で食事をするときのためにいつも玄米のおにぎりを用意していた。やがて背中の痛みが消え、20年来の下痢がなおり、そして骨に転移した癌が消え、なんと、玄米菜食をはじめて3年後には、担当医から癌が完全に治癒したことを告げられた……。
彼女はこういったことを感動をこめて語った。私はなにか不思議な物語を聞くような思いで耳を傾けていた。にわかには信じがたい話ではあった。しかし、実際にあった事実であることはまちがいないらしい。彼女が差し出す本を私も走り読みした。そこには、彼女の言うとおりのことが記されていた。だれかの身に起こったことは、彼女にも同様に起こるかもしれない、と私は思った。医食同源という言葉は知っていたが、おそらく、それはこういうことなのかもしれないとも考えた。
彼女は、玄米菜食による食事療法を指導するというクリニックが東京のお茶の水にあることを調べ、そこで食事療法の指導を受けることになった。それまでの私たち一家の食事は、肉と魚と野菜に白米という、日本の大多数の家庭で見られるもので構成されていたが、ある日を境に、食卓の光景は一変した。肉料理は完全に追放され、いつも冷蔵庫の一角を占めていた牛乳は姿を消し、白いごはんのかわりに薄褐色の玄米がいつも食卓に供された。
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滋子はのちに書いた『手記』のなかで当時を振り返り、「こうして夫の超人的な日日が始まった」と書いている。「超人的」という言葉は過分な表現としても、朝の弁当づくりからはじまる1日は私にとってはち切れんばかりに充実した時間だった。弁当をつくり、朝食をつくり、そして、ガーゼ交換、掃除、洗濯が終ってようやく机に向い、やがて昼食となり、買いもの、ふたたび机に向い、夕食の用意……。ほとんど変わることのない日課が正確に反復された。私は、この日課のどこか1ヵ所でも崩れると、生活全体が崩れ落ちるような、そんな気がしていた。
奇跡の生還とおまけの時間 より
1986年12月13日、土曜日、慈子はわが家に帰ってきた。約5ヵ月前、死を覚悟してホスピスに向った弱よわしい姿とは打って変って元気な足取りで彼女は玄関のドアをあけた。
「おかえりなさい!」
満面に笑みをうかべて息子が出迎えた。
「ありがとう……」
彼女は息子を両手で抱きかかえ、何度も同じ言葉を繰返し、やがて涙声に変わっていった。
息子の目も、私の目も涙で濡れていた。
世の中には奇跡などめったに起こらないし、人間が生涯の本当に奇跡と呼べるようなことに立会うのはきわめて稀なことであろう。私は軽々しく奇跡という言葉を使いたくない。しかし、私は彼女の生還を「奇跡の生還」と呼ばずにはいられなかった。余命2、3ヵ月と診断された人間がこうして元気になって帰ってきたこと。つまり、だれもがありえないと考えたことが現実に起こったこと、これこそが「奇跡」の名に値することではないだろうか。
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どうでもいい、じじぃの日記。
暇なもので、病気に関する本をよく見ている。
図書館の中で医療関係の本を覗いてみたら、『死亡率100パーセントを生きる―ある愛と死の記録』という本があった。
この本は、一言でいえば、ある病院嫌いの奥さんのがん闘病記ということだろうか。
1880年の春、奥さんが胸に小さなしこりを感じた。そのしこりは時間とともに大きくなっていった。
その後、がんを「玄米菜食」で治そうという食事療法を取り入れた。
しかし、胸の患部は膿の塊のような状態になり、ときどき、膿と血が混ざったような液体が流れ出すようになっていった。
1986年7月、死を覚悟してホスピス入院。余命3ヵ月をホスピスで過ごす予定だった。
1986年12月、ホスピス退院。5ヵ月の入院生活でがんは小さくなっていた。
彼女は息子を両手で抱きかかえ、何度も同じ言葉を繰返し、やがて涙声に変わっていった。
1990年7月、奥さんが50歳で亡くなる。死因は心不全だった。医師の説明によると、左胸のがん組織が内部へと拡大して心臓を圧迫し、ついには心臓を停止させたということだった。
胸に小さなしこりが見つかってから、10年の闘病生活だった。
この本の読んで、手術でがんを取り除いても 放っておいても、余命はそれほど変わらないかもしれない。しかし、ホスピス入院までの体のがんによる苦痛の日々は、私には耐えられそうもないと感じた。