じじぃの「科学・地球_433_アルツハイマー征服・アリセプト誕生」

アルツハイマーを血液で判別 “ノーベル”田中氏ら(18/02/01)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=VD6z4RPCDnk

アルツハイマーを血液で判別


アルツハイマー征服』

下山進/著 角川書店 2021年発行

第8章 アリセプト誕生 より

  治療薬のなかったアルツハイマー病に初めて薬が生まれる。エーザイの内藤晴夫は、米国の臨床第三相を独自でやる賭けに出た。そのキーオープンの結果は。

エーザイアメリカが行なうことになった臨床第三相は、第二相とは比較にならないほどの規模となった。アメリカだけでなく欧州の病院でも同時に行なう。全部で60にもなる医療サイトで、プラセボ、5ミリグラム、10ミリグラムの三群間二重盲検比較試験を行なう。12週間投与の患者の数は468人、24週間投与の患者の数は473人。
臨床第二相で5ミリグラムで時間がなかったことから、ローレンス・フリードホッフ(エーザイ研究員)とシャロン・ロジャーズ(エーザイ研究員、当時40歳。小柄で美人)は、10ミリグラムまで投与量をあげていた。
ロジャーズは、臨床第三相も、治験を行なうプロトコルを徹底的につくりこんだ。どの病院でも臨床心理士や医者がそのプロトコルどおりに治験を行ない、認知症という進行の速度の測りにくい病気の進行をきちんと把握すること、成否の分かれ目はそれにつきると考えていた。
米国はよかった。ロジャーズが苦労をしたのは英国での治験だった。
「英国は、医者は学士でなることができる。だからちゃんと訓練ができていない。それに健康保険の仕組みが非常に貧困だ。私は、遠心分離機やファイリングキャビネット、ファックス、そうした機器をそろえなくてはならなかった」
こうロジャーズは憤懣やる方ないといった感じで私に主張したが、日本で治験を担当していた尾澤秀男によれば、ロジャーズの性格が強烈すぎて、欧州の医者が辟易してしまったのだという。欧州、日本、米国の3極を結んだテレコンファレンスで、監督する欧州の手順が少しでも違うと、非常に厳しく指摘していたという。

どんでんがえし

通夜のような別室の静寂を破ったのは、駆け込んできた統計会社クエンストの統計係だった。
「申し訳ありません! 間違ったコードを入れてしまったことがわかりました」
彼女の説明によれば、テスト用キーをいれてしまい、本来のキーをいれていなかったのだという。そのキーを今いれたところだ、と。
「解析結果が出るまで30分ほどかかります」
一同の表情に希望が戻った。
祈るようにして待つその時間は長かった。
時間の秒針の音が聞こえる。誰も何の言葉も発しない。10分が経過し、20分が経過する。そして30分を過ぎたころだろうか。
別室のドアが開き、新しいデータを持ったクエンストの社員が入ってきた。
フリードホッフやロジャーズが、おそるおそる印字されたデータを読み始める。
2人の表情がみるみる明るくなるのが周囲にもわかった。
笑みがこぼれている。
その結果は、12週調査の結果よりさらによかったのだ。
5ミリグラム、10ミリグラムとともに、プラセボよりはっきりと有意差がついていた。つまりこの薬を飲むと、認知症の症状を改善する、あるいはくいとめられるという結果が出ていた。
部屋の中でフリードホッフは、脱力したかのように座り込み、ロジャーズは周りの人間に抱きついて喜んだ。大きな歓声が、クエンスト社員からもあがった。
ついに、アルツハイマー病に効く初めての薬ができたのだ!
ひとしきり喜んだあとで、松野聡一は東京で1人待っている内藤晴夫のことを思い出した。あわてて、電話をすると呼び出し音がするかしないかのうちの内藤が出た。
「社長、やりました。24週は12週よりもさらにいい結果です!」

根本治療薬の開発

年が明けて97年2月5日~7日にアトランタで、新薬発売記念大会が開かれた。
E2020は「アリセプト(Aricept)」と命名された。
杉本はそこに招かれ開発者として15分間2500人の聴衆の前で話をした。
会場では、人事部の杉本八郎ではなく、ドクター・スギモト(杉本八郎博士)として紹介され登壇した。
「私がこの薬をどうしても開発しなければならない、と思ったのは、母のことがあったからです。母は9人の子どもを育てました。貧しい家庭でしたが、子どもたちを必死に育てたのです。その母が、私のこともわからなくなってしまいました。私にとってそれは深い悲しみでした。その時私は決心したのです。人間は皆、年をとらなくてはならない。しかし、年をとっても、健康で聡明な心を持っていられること、そのことのために私は科学者として仕事をしなければならない、と」
そのスピーチを終わると、会場を埋めたファイザーの社員、医師、患者の家族、臨床心理士たちが、たちあがり手を叩き始めた。万雷のスタンディングオペレーションとなった。
舞台をおりた杉本に、航空会社のCAをしているという1人の女性が目に涙をためて近づいてきた。
「ありがとう。ありがとう。ドクター・スギモト。私の母はあなたの薬を飲んでいます。私のことをわかるようになりました」
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アリセプトはまたたく間に世界中に広がっていった。全世界100ヵ国以上で承認され、アルツハイマー病の唯一の治療薬として爆発的なヒットとなった。エーザイにもたらされる年間の売り上げは1000億にものぼった。アリセプトが発売される前の1996年のエーザイの売り上げは2816億円だったが、これが2002年には4666億円にまで成長する。
エーザイはこのアリセプトの成功で一気にグローバル化していく。

まだ運が残っている。そう見込まれた杉本八郎は、筑波の探索研究所に戻った2年目の1999年には、社長からの特命事項をうける。
ポスト・アリセプトをやれ。
アセナ・ニューロサイエンス(エラン)の科学者たちが、トランスジェニック・マウスを使ってある画期的な治療法の開発を発表していた。
アリセプトは、根本治療薬ではない。脱落していく神経細胞の信号を活性化させることで、8ヵ月から1年半進行をくい止めるという働きの薬だった。
神経細胞の脱落自体を防いでいるわけではないので、病気が進行するとやがて効かなくなる。
だが、エランの科学者たちが開発したその方法では、アルツハイマー病の病状のひとつである老人斑が消えるのだという。すくなくともマウスでは消えた、のだと。
そうしたニュースが伝わってきたことで、杉本は根本治療薬の開発を命じられることになったのである。
エランの中で、その方法を思いついて2000年代からのアルツハイマー病治療の研究の地平を一変させたのは、チェスずきの科学者、デール・シュンクである。